ぽンすけ。ブログ

主に闘病記。タイトル【欠陥品】は病気の発症とされる時期(生い立ち)について。毎月末に【月詠み】として1ヶ月の軌跡をまとめています。他は思ったこと、言えないこと、言いきれない想いを綴ってます/⚠閲覧は自己責任

年詠み〜2021〜

 

2021年は、

「たった一つの出来事が私の人生を180度変えた」

そんな一年だった。

とてつもないスピードでそれは私を襲い、

今もなお余力を残し漂い続ける。

 

ーいつまで続くのだろうか…ー

 

つい返事のない問いが漏れる。

ただ今は、めげずに立ち向かった一年を振り返る。

 

 

 

 

ーーーーーー年詠みーーーーーー

 

 

 

2月中旬、なんともない日の深夜。

いつものようにYouTubeを見ながら、

息が白くなる部屋の中で眠りにつくのを待っていた。

 

引越しの相談を職場の先輩にして、

休みの日に不動産へ行っては悩む日々。

仕事は部署替えがあり

念願のインターネット回線を担当する部署へ異動したが

上司や同僚の知識の無さや、間違った情報、

何の意味も見出さない研修に精神的に参っていた。

 

YouTubeが流れていないと眠れない。

眠れたとしても2時間程度。

そんな日が続いたあの日。

 

突然、顔の左半分に痛みが襲った。

切りつけられたような、焼かれているような

治るどころか強くなる痛みに悶えた。

職場の先輩に何とか電話をしたが、痛みで口を動かせず

泣きながら訴えた。

 

翌日、通っていた整体の先生を通じて

ペインクリニックに緊急で診てもらった。

 

診断は『帯状疱疹

 

1週間仕事を休み、そのあとは強引に出勤した。

 

話しにくさは残るものの、ある程度顔面の痛みが引いた頃、

今度は左の肩甲骨に激しい痛みが走るようになった。

それは毎回突然で、痛みで息ができなくなるほどだった。

痛み止めで誤魔化し、引き続き仕事を続けていると

その1週間後には左腕の痺れ・倦怠感の症状が出始めた。

 

仕事終わりで遅い時間になっても、

体調を気遣ってくれて診察してくれていた整体の先生に

症状の変化を都度伝えていたのだが、

整形外科への診察を促された。

 

結果『貧血』と診断されて終わった。

 

痛みはみるみるうちに全身に拡がり、

左足の痺れ・倦怠感・脱力感、

右の肩甲骨の痛み

ついには右手足も左と同様の症状が出るようになった。

 

いよいよ職場の上司が事の大きさを感じ、

町の脳神経外科への外来受診を勧めてきた。

言われた通り受診し、経緯を伝えると

触診や手足の反応テストをいくつか実施した上で

『確かに貧血だけどそれが原因ではない』

『一刻も早く詳しい検査が必要です』

そういってあっという間に大学病院への受診を手配した。

 

ここに到達した頃には、季節は初夏になっていた。

 

2月に発症してから約4ヶ月だ。

 

5月にはもう痛み止めも効かず、

一切仕事に行けなくなっていた。

 

焦りと痛み。不安。

 

どんどん追い込まれていった私は

家から出ることすら出来なくなっていた。

 

そして7月。

大学病院へ。

9時に診察が始まり、終わった頃には13時を回っていた。

 

告げられたのは

視神経脊髄炎スペクトラルの疑い』

 

目の神経含め、神経が死んでいく難病である。

 

2週間の検査入院をその場で告げられた。

親族にも連絡しておくようにとも。

 

その後、どうやって生きていたか覚えていない。

 

母親に連絡しなければいけない、という恐怖。

1人でどこまで治療できるのかもわからない不安。

疑いであって自分は違うだろう、と楽観的な気持ちとでごちゃごちゃだった。

 

常に最悪の事態になった場合のことを考える私だが、

どれが最悪な事態なのかがわからない。

そんなことは今までの人生で初めてだった。

 

 

検査入院というもの人生で初めて。

何が持ち込めて何が持ち込めないのかさえわからない。

例えば、

コーヒーは飲んでいいのか?

お菓子は食べていいのか?

どんなお菓子なら迷惑にならないのか。

そこからだった。

迷うたびに院内の相談窓口に電話した。

 

会社には長期休暇の申請。

生活の補助をお願いしていた市にも必要手続きを聞き、山積みの書類とまとまらない荷造りに追われた。

 

 

検査入院中も辛いことしかなかった。

でもこの入院が今の私に繋がっている。

 

 

検査結果は

『機能性神経症状』

 

当初告げられていた脊髄炎については

まだ発症はしておらず、経過観察となった。

 

この結果がまた新たな疑問や不安を生んだ。

まだ発症していないにも関わらず

同様の症状が既に出ているということだ。

 

神経が異常に活発化していて

それが痛みや痺れとして現れているという。

それが『機能性神経症状症』と説明されたが、腑に落ちない自分がいた。

 

もっと簡単に言えば

『脳神経には異常ないです。

きっと精神的な負荷が原因で神経が暴れてるのかも』

 

という、とっても曖昧な診断だったからだ。

 

私が抱えている精神疾患のせいだろうとも言われた。

 

…今更ではないか?

 

そう思ってならなかった。

それはこのブログを書いている今もそう感じている。

 

最低でも5年は経過している。

精神疾患だと診断されてから5年。

おそらく発症したのはもう20年も前の話だ。

 

 

慣れない東北の寒さや

水道管凍結で水が出ない生活を送ったり

仕事以外のことでもストレスはあったと思う。

単純に免疫が低下していた。

だから帯状疱疹になった。

心も体も疲弊していたのは事実だ。

 

でもこれは自分が紐付けた見解であって、

医師は誰1人そこに触れない。

 

 

難病であって欲しかった。

 

 

そう思ってしまった。

 

 

精神科の受診を促され、

診察という暴露大会が開催され

処方されたのは鬱病の薬。

 

9月になった頃には

何のために病院に通っているのか

仕事を休んでいるのかわからなくなった。

 

主治医に無理を言って、10月には職場復帰した。

たった3時間の勤務ができなかった。

呼吸は浅くなり、全身に力が入らない。

4日間が限度だった。

 

情けない。

難病でもないのに動けない身体。

何にも揺さぶられない感情。

 

 

私が向かったのは、通っている大学病院。

入院病棟だった。

 

検査入院中、お世話になった先生の元に向かい、

『今までありがとうございました』

そう笑顔で伝えた。

 

実は入院中、

大学病院では普通らしいのだが

教授大行進が毎週水曜日に行われていて、

突然、十数人の教授に囲まれたあとパニックを起こした。

それを見逃さず一度退室した医師が

大行進を抜け出して戻ってきてくれて対応してくれた。

それがその後決まった入院中の担当医、渡部先生だ。

 

大学病院は入院病棟と外来の担当医がそれぞれいて、

退院後は外来担当医に引き継がれる。

そのため、一番の理解者だった渡部先生には

退院した時点で診てもらえなかったのだ。

 

渡部先生は退院後の治療ビジョンを一緒に考えてくれていた。

以前飲んでいたパニック障害の薬も伝えていて

今後服用した方がいい薬まで相談して決めてくれていた。

 

そんな渡部先生に私は全てをぶつけた。

 

『今までありがとうございました』と伝えた後に

渡部先生が考えてくれた治療ビジョンは

見事に外来担当医によって粉々にされたことや、

視神経脊髄炎の治療もストップになってしまったこと、

鬱病や癲癇の薬を処方されていることを告げた。

 

渡部先生は

「疲れたね。頑張ったね。」

そう言ってくれた。

「治療、やめたくなった?」と言われ、

私は頷いた。

 

   『だから、最後に会いにきた』

 

そう先生に言うと全てを悟ったようで、

「僕が外来やってる病院においで。」

「ちゃんと食べて、薬飲んで」

「僕の病院に来ること。約束して?」

 

この時私はすでに、

死ぬことを選択していた。

この病院を出たあとに…と決めていた。

だから先生が涙目になりながら差し出してきた小指を、

ただ眺めることしかできなかった。

『約束、できないよ』そう言ったとき私は泣いた。

ダムが決壊したみたいに泣いた。

「約束するまで僕は仕事に戻らない」

先生も泣いていた。

 

私よりも頑固で

入院中、何度も言い合ってぶつかったけど

歳が近いのもあったし

何より嘘をつかない先生に心を許していた。

好きな曲やアニメをお互い勧めあった先生。

その先生が泣いている。

 

私は先生と指切りをした。

 

 

渡部先生は毎週月曜日、

福島県郡山市にある古巣の病院で外来医を続けていると、

入院中に聞いていた。

 

その病院で月に2回、外来受診することを約束した。

 

実際、この約束を果たせたのはそれから約1ヶ月後。

11月になってしまっていた。

 

そう簡単に県外受診はできず、

医療費を全額負担してくれている市からの

許可が下りなかったのだ。

 

渡部先生がいる診察室に入ったとき涙が出た。

 

『やっと来れた』

「やっと来た」

第一声は2人同時に発せられた安堵の声だった。

 

もう一度検査をし直して、

脊髄炎が陰性になっていないか調べたけど

やはり陽性のままだった。

渡部先生が信頼している同じ病院内の精神科医と連携して

治療を進めていく方針となった。

 

だが、

市から県外受診を許可するための条件があった。

 

【通算2回までの受診のみ可。】

【それ以降は一度仙台の病院にて受診し、

それでも県外受診が必要だと判断した場合再申請を要す】

 

この条件は渡部先生にも市から連絡があり、

どうすべきか先生も頭を抱えていた。

 

 

郡山市に引っ越すよ』

 

 

私は覚悟を決めていた。

 

 

会社の上司にも提示された条件を伝え、

福島に行くべきか仙台に残るか相談していたのだ。

症状が出てから約10ヶ月、

都度サポートしてくれた上司。

【ぽんちゃんの身体がよくなることが第一優先】

そう言って引越しを後押ししてくれた。

 

 

そして12月。

私は今、福島県郡山市にいる。

引越し中、車破損の事故はあったものの

先生や友達の助けもあって

何とか日々を過ごしている。

 

私が抱える恐怖症のひとつ、

公共交通機関(バス)にもチャレンジした。

結果は良好だ。

車を修理する事が出来ず、

己の脚か公共交通機関に頼るしかない状況になり、

そんな状況をも、楽しもうと思う自分がいる。

 

それは、渡部先生を初め

支えてくれた職場の先輩や上司、

そして友の存在がそうさせてくれた。

 

来年には仙台に戻る予定を立てているかもしれない。

はっきりとは何も決まっていない。

まだまだ悩みながら

痛みだけではなく不安や寂しさとも

闘っていかなければならない。

 

きっと、心が癒えることはないだろう。

 

それでも、少しでも、

『生きて欲しい』『元気になって欲しい』

そういうみんなの想いに

応えられる自分でいようと思う。

 

 

ーーーーーー年詠み[完]ーーーーーー

 

 

たくさんの、感謝を。

 

 

20215月17日。

和太鼓暁天。

無期限の活動休止を発表――――

 

 

 

振り返れば3年前。

まだ病に倒れていた頃、

1人東京に向かった。

公開稽古を見るため。

初の試みだった。

 

何もかもが怖かった。

最後まで観れるのか、そもそも辿り着けるのか。

観終えたあと無事に帰ってこられるのか。

 

そんな不安も、

最前列で感じる和太鼓の生音に

初めて触れた時消え去ったことを

今でも覚えている。

 

『もっと聴いていたい』

『また聴きにいきたい』

そう思った。

 

そして、

台湾フェスティバル

チルドレンフェスティバルに参加。

 

どれも初めてのことで

戸惑い、不安だった。

 

それでも音の繋がりは素晴らしいもので、

気づけば私はたくさんの人に出会い、

声をかけてもらえるほどになった。

 

1人だったイベント参加が、

1人じゃなくなった。

 

 

無事にイベントを完走したい。

 

そのために

病に沈んだ心を奮い立たせ、

埋もれた身体を起こし、

『会話』のリハビリ。

 

人との関わりをほぼ絶っていたあの頃、

何とかしようと必死だった。

 

それがあったから

今私はこうして生きているし

這い上がれたと思う。

 

 

全てのきっかけをくれた暁天。

 

本当にありがとう。

 

これからも私は暁天を愛しています。

 

 

また会えますように。

 

 

それまで私ももう少し

踏ん張っていこう。

 

 

 

たくさんの、感謝を。


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年詠み2020

 

今年はどうだったのかなぁ

なんて考えても…

 

 

『大変だった』ですね、みんな。

 

だけど

明日は来る

 

ーーーーーーー年詠みーーーーーーー

 

通信会社の繁盛期は

いつもの繁盛期とは違った。

 

 

世界を黒く染めた病。

 

 

誰もが何かを失い

見失い

苦しみ

人の優しさが染みて

人の醜さが際立った。

 

助け合う人達の隣では

見知らぬ人に罵声を浴びせている。

 

毎日10時間を超える業務に追われながら

謝り続ける日々。

 

誰に何を謝ればいいのか

分からなくなった。

 

誰が悪いとか

システムが悪いとか

そういう事じゃなくて

こうなってる世界の危機で

誰もが辛いはずなのに

 

感覚が麻痺していった。

 

そして身体も限界を超え

左手の肘から薬指と小指にかけて

痺れるようになった。

 

ピリッとする痺れから

すぐさま激痛が走る痺れにかわり、

数分で落ち着いていたはずが

数時間へかわり

数日続くようになるまでに

時間はかからなかった。

 

利用者のサポートをするはずなのに

怒られるために出社し

家に入った瞬間

痛みと痺れで疲弊した身体は力が抜け

玄関先でよく、しゃがみ込んだ。

頭の中では

送信されてくる罵声の数々が浮かび

横になると痺れは増し

眠れない日々も続いた。

 

センター内も姿を変え

窮屈になった。

個人情報を取り扱うコールセンターは

出社しなければならない。

誰にも文句のひとつも言えない。

会社が悪いわけじゃないから。

 

きっとみんなも

そうだったんじゃないかな。

 

みんな、本当に頑張ってる。

 

 

振り返ればそう思える。

でもその時は

そんなふうに思える余裕はなかった。

 

きっと、みんなそうだと思う。

 

 

 

 

整体の先生と相談して、

チャット業務からの異動を願い出た。

まだ声を使っていた方が

身体は楽だからだ。

左腕をデスクにのせることすら

出来なくなっていたそんな状態で、

長時間ハードなタイピングは

もう無理だった。

 

異動先は光回線

テクニカル部署だった。

 

そこには

慕っている先輩もいた。

 

研修が修了して

1人で応対するようになり

少しずつ部署に慣れ始めた頃、

先輩と相談して

別の先輩2人と上司2人を呼び

病気のことを打ち明けた。

 

打ち明けたのは『心の病気』のほうだ。

 

過剰な保護はなく、

あくまでも私の判断に委ねてくれる。

 

業務が難しい精神状態のときは

SVの1人は自席の隣に私を座らせ

ひたすら世間話をしてくれた。

 

もう1人の上司は

いつも『宿題』を与えてくれる。

 

「このアニメ観て」と。

 

そうやって少しでも

[明日]をくれる。

 

職場から喫煙所が撤廃されてからは

喫煙車に集まる。

それも[明日]に繋がる。

 

私がいないと

先輩がタバコ吸えないから。

そんなことで?!って

思われるかもしれないけど、

紙タバコOKの車は今や貴重なのだ。

 

そんなこんなで

なんとか[明日]を見据えて生きている。

 

今はそれでいいと思っている。

 

 

今日の先に明日はない。

明日の先に未来はない。

 

 

今日生きられたのなら

明日はやって来る。

 

どんな明日も。

 

 

それが辛い明日でも

[昨日]になれば笑えるのなら。

 

もう少し

見ていたいとも思う。

 

 

どんな明日になるのか。

 

 

どんな1年になるのか。

 

 

見てからでもいいと思っている。

 

 

見ないと分からないから。

 

 

生きていたいと思う未来なのか。

 

 

それを見た先の自分が

何を思うのか。

 

 

また1年後、ここに綴ろうと思う。

 

 

 

 

 

ーーーーーーー年詠みーーーーーーー

年詠み2019

 

 

2019年は

終わりと始まりを繰り返した1年だった

 

 

 

ーーーーーー年詠みーーーーーー

 

 

生きることを決めた冬。

 

人生でひとつの「、」を付けた春。

 

念願の「SANNINSHOW」参戦。

目標としていた観客席。

大号泣から始まり笑顔で終わったあっという間のトークイベント。

 

会いたかった人達とたくさん笑った。

 

初めて見る景色も横目に

気が遠くなるほどの長距離運転。

心の中で“ここから始まるんだ”と

これから待つ試練に立ち向かう、

そう心に決めた

 

 

はずだった。

 

 

 

他県に引越し、

行き交う人の歩みの早さに呑まれ

動けなくなった。

社会復帰をしても

病気が悪さをする。

週末は茨城と宮城を往復して

派遣の仕事で食いつなぐ。

そんな生活は二ヶ月もたなかった。

職を失い

“やっぱり、無理なんだ”と

己の弱さを悔いた。

 

食べるものもなくて

ようやく有りつけたバイト先。

手取りで貰った給料は

茨城と宮城を往復するガソリン代に消え

茨城にいる友達や

派遣バイト先の仲間が

食べるものを分けてくれた。

 

大事に、大事に食べて

残りはうまい棒1本で過ごした。

 

茨城に戻るお金もなくなって

悔しくて惨めな思いを

血が出るくらい拳で握りしめて

選択した「生活保護」。

 

市から支給される、

賞味期限が切れた試食用の小さなカップラーメンを食べた。

 

灰皿から一口でも吸えるタバコを探して

身体は糖分を求めて限界を訴えて

市から支給された乾パンを食べて。

中に入っている氷砂糖がご馳走だった。

小さな野菜ジュースさえ身体に沁みた。

 

力の入らない身体を必死に起こして

市からの提案で仙台市内に引越し。

 

生活必需品は市が負担してくれた。

 

生活保護を続けることを

強く勧められたけど

もう一度挑戦することを決めた夏。

 

それが今の本職。

 

葛藤と憤りを感じながらも

インターネット回線の

コールセンター業務は楽しかった。

誇りだった。

1度は眠った積み上げた知識が飛び起きて

頭の中で弾んでいた。

 

それでも。

 

ユーザーの質の違いに

心は悲鳴を上げた。

 

それでも。

 

ようやく掴んだ仕事を

簡単には手放したくなかった。

 

季節は秋になり

心を開ける先輩の存在に気づいた。

“ひとりじゃない”と

言い続けてくれた。

 

同期とも手を取り合って

なんとか踏ん張った。

 

 

その矢先に部署替え。

 

 

今までの部署は役目を終え

センターから消滅した。

新しい部署でまた

“初めまして”がやってきた。

 

その部署の人達は

センター1、明るいかもしれない。

次第にそう思うようになった。

 

慣れない業務の知識の多さ、

ディスプレイと睨めっこして、

ほぼ1日タイピング。

異動した部署は“チャット担当”だから。

 

 

そして季節は冬。

 

東北の冬は痛い。

寒いを通り越して身体に刺さる。

いろんな人にアドバイスをもらって

東北の長い冬に挑戦中だ。

 

 

 

 

 

 

いろんな場所で

“はじめまして”と“さよなら”を。

 

そんな目が回るような1年で、

身体も心も許容範囲を大幅に超えた。

 

もうしばらくいいかな…とさえ思う。

 

回復できないまま

新しい年を迎えようとしている。

 

 

仕事漬けの年越し、年明け。

しばらく休めそうもない。

 

 

それでも。

 

 

食べるものがある幸せ。

食べるものを買える幸せ。

【給料日】がくる幸せ。

【身体が動く】幸せ。

会いたい人に会える幸せ。

 

いろんなことに幸せを見つける。

 

 

人間関係に疲れたし

嫌気がさしてるけど、

それは特定の誰かであって

いま私の周りにいる人全員じゃない。

 

生きることを諦めようとしても

会いたい人たちがいるから

踏みとどまる。

 

やりたいことがあるから

やらなきゃいけないことと向き合える。

 

たとえそれが

身体のタイムリミットを縮めたとしても

後悔はしない。

 

精一杯やったと、初めて言える。

 

 

来年もそんな

“いつか来る終わり”のための

誇れる足跡になればいい。

 

そうなるために

私は自分に課せられた“宿題”に挑む。

 

 

空で待つ人たちと

答え合わせできるように。

 

 

来年も自分の人生を解き続ける。

 

 

 

ーーーーーー年詠みーーーーー

 

カミングアウト

今更ですが。
私の生い立ちの話をします。


※不適切な表現を使わざるを得ない内容です。苦手な方は閲覧をお控えください。




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ーーーーー

ーーー









私は、
気づくと兄から性的虐待を受けていました。

それが
性的虐待」だと知ったのは
20歳になってからです。


小学生の頃、
気づくと家には兄しか帰ってこなくて、父も、母も、
帰ってきませんでした。


親戚のおじさんと二世帯住宅だったけど
いつも酔っ払ってて
何言ってるか分からなくて、
突然殴りかかってくるような人で
頼ることは愚か
鉢合わせすることさえ恐怖でした。

そのため、必然と
兄と2人でお風呂に入っていました。

それは兄が中学生になっても、
私が中学生になっても変わりませんでした。


兄が中学生になる手前あたりから
日課が出来ました。

兄から受ける「成長確認」。
それはいつもお風呂のときです。

そして寝る前は
兄の性的処理をしました。

兄が布団に入ったら合図です。

それをしなければ殴られました。

「お母さんに言うからな」

母から虐待を受けていた私は
それが1番の恐怖でした。

『お母さんに怒られる』

『お兄ちゃんの言う通りにすれば怒られない』

そう言い聞かせていました。


兄が高校生になったとき、
ようやく解放されました。


小学生から心を閉ざし
とりあえず笑って過ごす。
世の中も、自分も、
ゴミだと思って
死ねる日を待ち続けていました。


そんなとき、
Masayaと出逢い、
Masayaが気づき、
癒してくれました。


そういうための行為じゃないと。
全てを塗り替えてくれました。

強要も強制もせず
誰かに愛されている幸せを
初めて与えてくれました。


それでも、
過去は消えてはくれません。


今でも、
男性器の処理は強い抵抗があります。
一種のトラウマです。

言わなくても、
私の顔を見て気づく人たちばかりで。

私は甘えていました。


最近気づきました。
“例外もいる”と。


私の顔を見ても気づかず、
勇気をだして拒否をすると
途端に顔に出されました。

そして毎回お願いされました。

理由を話しているのに。
分かってるようで
分かってくれない。

自分の欲求を押し付けてくる。



そんなことがあって、
私はその人に
何も言えなくなりました。

言えば泣く、または拗ねる。
途端に機嫌が悪くなる。

「でも俺は俺だから」と
助言を聞かない。


お別れをしましたが、
自分は悪くない、と。

言わなかった私が悪いと。


『言ったら怒られる』
『言ったら機嫌悪くなる』

私の母に対する感情を
その人に抱いていました。


母を怒らせないように
殴られないように
そうやって、生きてきました。

それは
私が学んだ「防衛方法」です。

その癖は抜けません。


その過去も知っているのに
「言わないお前が悪い」と。


言えなくしたのは誰でしょうか?



どんどん閉ざしていく心を
必死に、
毎日こじ開けています。

その負担は大きいものです。

その最中にも
公の場で
自らを正当化する言葉を放たれて

こじ開けている心は
【バタンッ】と閉まります。



この場を借りて過去を綴るのは
私なりの勇気です。



同じような過去と生きる人と
一緒に生きることを決めた人がいるなら、
どうか届いて欲しいと願いながら。







ー過去の傷は薄くなることはあっても完全には消えないー

いとこ

 

 

令和元年10月21日

 

母方の祖父母、

曾祖母のお墓参りに行った。

 

町はまた変わり

お墓から見える景色も変わり

町のにおいだけは変わらず。

 

萎れた花を片付けて

いつものように雑に墓石に水をかける。

私は花は飾らない。

きっと  いとこ  だろう。

片付けが面倒だのなんだの

文句を垂れる祖母の顔が浮かぶ。

 

いつだって私には甘いが

いとこにはちまちま

文句を言う祖母だった。

そんな祖母にいつも私は困っていたんだ。

 

ーーーーーーーーーー

 

母の弟夫婦の間には2人子供ができた。

私より1つ歳下の女の子と

5つ下の男の子。

 

私たち家族は坂の下。

いとこ家族は坂の上に住んでいた。

曾祖母と祖母が住む母屋、

別棟に  いとこ家族。

L字型に並んだ2つの家の中心に

曾祖母の畑。庭。

そこはいつも笑顔で溢れていた。

 

1つ違いの女の子。

服も自転車も当時流行ったホッピング

全部色違いで祖母が揃えた。

色違いで用意するのは祖母なのに

いつも文句を言っていた。

 

『同じ人間かい??』と。

 

母の弟カズの奥さんは

オブラートに包んで言ってぽっちゃり系。

童顔で細身のカズさんとは違い、

とても綺麗とは言えない感じの人だ。

その血を強く引いた私のいとこ。

祖母は当てつけのように

私に合わせたサイズを買ってくる。

 

そして言う。

 

『同じ柄にしたのになんだいそれは』

『みっともない』

 

俯くその子に

かける言葉が見つからなかった。

 

それでも

大型連休のときはみんなで旅行に行ったし

クリスマスは地元に1件しかない、

カラオケ屋に行き

祖母が買ったケンタッキーを食べるのが

毎年の恒例だった。

年始は母屋の縁側で餅つきをした。

誕生日会は

夏生まれの私の兄といとこの合同で。

私の分は父と合同で。

春に5つ下の男の子が生まれてからは

春夏秋冬、すべてイベント尽くしだった。

 

変わってしまったのは

私が中学2年生になった頃。

1つ歳下のその子が同じ中学に

入学してからだった。

 

私は自分がいるテニス部に誘った。

だが。

その子は断った。

 

『また比べられる』

『もう比べられるのは嫌だ』と。

 

初めて拒絶された。

 

学校でも話さなかった。

いや、

話せなかった。

 

距離をおかれるどころか

どんどん離れていった。

 

いつしかみんなで出かけることも

集まることも

なくなっていた。

 

 

 

そして私は。 

 

私たち家族は。

 

 

その町を捨てた。

 

 

母と祖母は完全に決裂した。

 

 

小さな田舎町。

町の人間が町を出るなど許されない行為。

掟を破った母は

戻ることを許されなかった。

 

 

拒絶されたまま。

 

 

私は今の今まで

いとことは会っていない。

 

 

もう20年くらいか。

 

 

私たちに

埋められない溝を作ったのは

祖母なのか?

 

 

いいや、違う。

 

 

拒絶されても掴めばよかった。

妹、弟が欲しかった私は

いとこ2人を溺愛していたのだから。

 

5つ下の男の子とは

まだ小さいその手を

いつも私が繋いで歩いた。

おぼつかない足で駆け込んでくる、

その小さな身体をいつも抱きしめた。

 

1つ下のその子だって。

その子に弟が生まれるまで

私の手はその子が独占した。

いくら祖母に文句を言われようと

彼女と1つの椅子に座って

ピアノを弾いたり

ホッピングで庭中に穴を開けたり

屋根裏部屋で絵を描いたりした。

 

本当の妹と弟のようだった。

 

 

それなのに。

 

 

私は

大切なものを守ろうとしなかった。

 

 

諦めたのだ。

私には何も守れないと。

捨てなければいけないのだと。

 

 

 

祖母の葬式の時、

私は出席しなかった。

 

 

母に会いたくない一心で

あの町に足を踏み入れることを拒んだ。

 

 

今は。

 

 

酷く後悔している。

 

 

葬式に参列しなかったこと。

 

何より

長女の娘としての役目を

果たさなかったこと。

私の代わりにその子が担ったと

あとで母から聞いたからだ。

 

 

そして、去年。

母の弟カズの奥さんと再会したとき。

 

その子が

私に会いたがっていると聞いた。

 

『謝りたい』と言っていたと聞いた。

 

 

私はその子たちから逃げること、

存在を消すことを選んできた。

その選択肢しか与えなかったのは母だ。

でも。

抗うことだってできた。

でも。

そうしなかったのは私の弱さだ。

 

祖母のせいじゃない。

 

溝を作ったのは

私だ。

 

 

ーーーーーーーーーーーー

 

今も変わらずそこに住むいとこに

私は会いに行った。

家の前に行くとすぐ分かった。

 

“誰もいない”   と。

 

大量に干された洗濯物。

それが在宅のサイン。

 

それがその日は無かった。

 

 

静まり返った庭を見渡す。

 

 

今でも残る母屋。

その縁側に

曾祖母が座っているように思えた。

 

その隣に

ビールを飲みながら

文句を垂れる祖母がいるようにも。

 

 

ここだけ時間が止まっているようだ。

 

 

私も同じだ。

 

 

 

何も知らずに笑う小さな私が

まだここに残されたまま。

 

 

 

 

祖母を想う時、

 

私は

 

離してしまった小さな手を思い出す。

 

眩しい笑顔を思い出す。

 

必死で走ってくる幼い足音を思い出す。

 

 

 

 

あの町に残してきた、

優しい記憶を抱きしめて

 

「また。春にくるよ」と

 

返事のない約束をした。

 

 

 

命日を間違えて1ヶ月早く来てしまった、

ドジな孫を笑う声が聞こえた気がした。

 

 

10年目

 

ここに綴る想いはいつも同じだ。

 

悔いても悔やみきれない過ちと

何をしても満たされない虚無感と

前を向いては真っ暗になる孤独

 

これからも

消えることはないと思っている。

消したくないと思っている。

 

 

この気持ちと一緒に生きていく。

 

 

10年前、そう誓った。

 

 

 

 

あの頃より

前を向いて歩くようになった。

それでも

秋の始まりからゆっくりと

足元は

黒く覆われていく。

 

進もうとする足を引き止めるように

暗闇の中へ引き摺り込むその影は

今か今かと息を潜めている。

 

 

 

 

“おはよう”

そう声をかける。

 

 

眠りから覚めたその影を出迎える。

 

 

“おやすみ”

 

 

そう見送って

今年も君だけが眠りについてほしいと願う。

 

 

 

ーどうか君と仲良く歩けますようにー

 

 

影の中へ連れていくのではなく

私の歩みについてきてほしい。

 

 

10年目にして

初めてそう思っている。

 

 

 

立ち止まれば

 

 

 

呑み込まれる。

 

 

 

 

まだそっちには行けないんだ。

 

 

 

だから

 

歩き続ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

君のことを想いながら過ごす

愛しくて

虚しい

そんな秋の始まりに。

 

 

私は今年も君を見上げ

君を探す。

 

 

 

 

 

“おかえり”

 

 

 

 

1度も言えなかった言葉と共に。

 

明日へ

 

 

何か始まると思っていた。

何か変わると思っていた。

 

けど

 

何も始まらなかった部屋。

何も変わらなかった部屋。

 

親友の笑顔に見送られ

戦友と踏み入れたはずなのに。

 

始まることを知らずに

数々の「終わり」だけを見てきた部屋。

 

 

社会人復帰が閉ざされた『終わり』

長年の執着を断ち切った『終わり』

友情が恨みを残して消えた『終わり』

そして

私自身の社会的『終わり』

 

これで良かったのかもしれない。

始まるには早すぎた。広すぎた。

ただ闇雲に未来を掴もうとした。

けど、

それが悪かったとは思わない。

 

こうして

新たなスタートを切るのだから。

 

 

 

【明日は来るのか】と悩むなら

明日を迎えに行けばいい。

 

【道が見えない】と蹲るなら

道を作るチャンスだと思えばいい。

 

【これで良かったのか】と振り向くなら

良かったと思えるように前を向けばいい。

 

 

たくさんの『終わり』が

私を変えたのは揺るがない真実だろう。

 

 

 

 

 

私は忘れない。

 

 

 

 

食べるものがなくて

市から支給された乾パンを食べたあの味。

甘いものを身体が欲して

氷砂糖の飴を舐めて糖分を摂取したこと。

タバコを買うお金が無くて

一口でも吸える吸殻を漁って吸ったこと。

お肉もご飯も、

涙が出るほど美味しかったこと。

 

 

忘れない。

 

 

だから。

這い上がれる。

 

 

 

人に助けられて

市に助けられて

今の私がいるなら

私がやることは一つ。

 

 

 

 

 

【昨日】は置いていく。

【過去】は連れていく。

 

 

 

 

 

進め。

 

 

 

 

 

前へ。

 

 

 

 

私が決める

明日へ。

 

この季節は。

 

あなたが水着を選んでくれたね。

レンタル水着での事故がキッカケで。

私に合うのを見立ててくれた。

 

浴衣が着たいって言ったら

喜んでくれたね。

当日までどんな浴衣にしたか教えずに

職場の上司に着付けてもらって

あなたの前に立ったとき、

こっそりあなたも浴衣を着ていて。

2人で照れ笑い。

 

どんなあなたも。

全力で。

会社からの逆風にも負けなかったね。

 

あなたと過した日々はどれも色濃くて

中々薄れてはくれないよ。

 

 

 

あなたは、笑っていますか?

隣に居てくれる人はいますか?

 

季節の変わり目に痛む頚椎。

苦しんでないか気になります。

 

 

だけど。

 

 

あなたとの思い出、

あなたがくれた愛情、

あなたと共有した苦しみ、

全て

私の中のもの。

これ以上増えることもない。

それを望んでいないから。

 

綺麗な思い出のままで。

 

 

 

夏が始まるよ。

 

欠陥品⑬/闇

 

詩の意味も含めて。

改めて綴ろうと思う。

 

 

ーーーーーーーーー

 

母がいなくなる前。

 

私たち本当の家族には

ルールがあった。

 

「お母さんが怒ってる時には

この部屋に来ること」

 

【この部屋】というのが、

3畳の小さな部屋だ。

 

子供部屋、リビング。

そしてこの小さな部屋。

普段はただの物置部屋だ。

衣装ケースには

営業マンだった父のスーツ一式や

ゴルフウェアの数々。

家族全員分の衣類が入った大きなタンス。

そして1畳分のスペース。

ここにいつも呼び出された。

 

呼び出されるのは決まって私だけ。

 

お風呂上がりに母が

濡れた髪をドライヤーで乾かしてくれる。

この時間が1番の幸せだった。

 

 

私は。

母が大好きだった。

 

 

 

殴られても怒鳴られても

(いい子じゃない自分が悪い)と

自分自身を嫌った。

(お母さんに褒めてもらうんだ!)と。

それだけを考えていた。

 

だが、幸せな時間は続かない。

その時間は【父がいる時】限定だからだ。

母が濡れた髪を乾かしてくれるのは

決まって父がいる時だけだった。

 

それ以外は。

 

<お仕置き部屋>

 

学校から帰ってきて塾がない日は

父が帰ってくる夜遅くまで

この部屋に閉じ込められた。

勝手に出ることも

電気をつけることも許されず、

正座している脚を崩すことさえ

許されなかった。

父が帰ってきたら

何も無かったように振る舞う。

それが出来なければ

父の目が届かない場所で殴られた。

 

閉じ込められる度に

外から聞こえる元気な声を聞いていた。

窓はあるが届かない高さ。

そこから出れば

屋根伝いに外に出られる。

 

でも。

 

そんな勇気も知恵もなかった。

 

考える必要もなかった。

 

【自分が悪い】から。

 

いつしか

【お母さんに嫌われている】からと

考えを改めた。

お仕置きには何があっても呼ばれない、

兄の姿を見て思ったのだ。

 

【お兄ちゃんがいればいいんだ】と。

 

小学校低学年ながら

どこかで思っていた。

 

【それなら産まなきゃよかったのに】と。

 

愛情に飢えた私は

ただ、待っていた。

 

優しく頭を撫でてくれるその手を。

 

 

その手は。

二度と私の頭を撫でることはしなかった。

 

 

3畳の部屋で

母を待つあの頃の私が

夢の中で映し出される。

 

 

今でも。

愛情を待っている後ろ姿が。

私から私へ

奥にひとつ、3畳の部屋

いつも暗かった

いつだって私しかいないその檻

濡れた髪を撫でる優しい母の手を

いつまでも待っていた

偽りの優しさだと知っていても

 

届かなかった声

小さな窓

走り回る子供たちの笑顔

いつだって眩しくて

届かない向こう側に手を伸ばしていた

 

置いてきた小さな手

今でも空に伸ばすその手を

今は

 

飛び出そう

その暗闇を越えていけ

走れるよ

あの頃の子供たちのように

届かなかった壊せなかったその檻は

私が壊すよ

あの頃の私へ

もう…待たなくていいよ

 

 

角にひとつ、6畳の部屋

いつも逃げ込んだ

息を潜めていれば生きていけると

広くなった、景色が変わっても檻の中

笑顔の仮面を描いた

偽りの「家族」を演じるために

 

叶わなかった願い

温かいご飯

家々に灯る優しい光たち

いつだって眩しくて

涙の数だけ赤い証を刻んで笑った

 

置いてきたんだ

下手くそな笑顔を被った私を

今なら

 

 

笑っていいんだ

その仮面を外してあげよう

走れるさ

何も知らなかったときのように

叶わなかった、壊された本物の私を

ちゃんと見つけたから

あの頃の私へ

もう…泣いていいよ

 

 

ありがとう

連れていけなくてごめんね

行かなくちゃ

あなた達が立ち上がれるように

その檻から出られるように

そんなことしか出来ないけれど

置いていくんじゃない

託していくよ

また会いに来てくれるかな?

あの頃の私へ

「生きてくれてありがとう」

 

 

                                      ーPoNskー

 

喉の奥で

唾を飲み込むように

流れていく言葉は

身体の中を巡っていく

 

「怖い」

「辛い」

「消えたい」

 

 

「死にたい」

 

口にしてはいけないと

いつの間にか

飲み込む癖がついた

 

喉の奥で

留まり続け始めた言葉

その想いは

毒のように蝕んでいく

 

 

やりたいことはなんだ

やらなければならないことはなんだ

やろうと決めたことはなんだ

 

 

毒が脳まで巡る前に言い聞かす

 

 

何度でも

何度でも

 

 

ただ

 

 

会いたい笑顔がある

 

 

ただ

 

 

過ごしたい時間がある

 

 

 

ただ

 

 

 

ただ

 

 

 

 

前を向けば

待ってる人がいるから

 

 

 

立ち止まるわけにはいかない

 

 

 

まだ

 

 

 

 

まだ

 

 

 

 

隣を歩いていたい

 

 

 

隣で笑っていたい

 

 

 

 

「怖かった」

「辛かった」

「消えたかった」

「死にたかった」

 

 

「でも」

 

 

「負けなかった」

 

 

 

そう言いたい

 

 

 

 

負けるわけにはいかないんだ

 

 

 

 

これから過ごす日々は

限られた自由の中で

許される限り笑っていたい

 

 

 

だから

 

 

 

噛み砕いて噛み砕いて小さくして

負の言葉を飲み込む

 

 

 

 

 

また笑えるように

 

 

もうとっくに笑えない。

もうとっくに生きる気力がない。

 

ただ、、

負けたくなくて

負けを認めたくなくて

まだ出来るって証明したくて

 

それだけで立ってる。

 

明日が来るのが震えるほど怖くて

それでも

明日はいい日になるとまだ信じていて

明日が来るように自分を保っている。

 

 

明日なんて本当は来なければいい。

永遠に来なくていい。

明日が来たからって

物事が良いように変わってるわけがない。

ただ、悪化しているだけだ。

 

 

どうして終わりにできないのか

考えるけど

今じゃないから

 

それだけだ

 

 

 

 

目を瞑るのも怖いんだ。

 

 

 

 

人に会うのも怖いんだ。

 

 

 

 

私が私じゃなくなっていくのが

怖いんだ。

 

 

 

 

 

 

笑うのが辛いんだ。

月詠み/5月編<2019>

 

これほどに人生を大きく変える月が

今まであっただろうか。

そして。

私は笑えるのだろうか。

 

ーーーーー月詠みーーーーー

 

令和元年。

たくさんの書類から【平成】の文字は消え

【令和】となった。

たったの31年と4ヶ月で

その役目を終えた【平成】。

私の人生もまた、

ひとつの役目を終えた。

 

ようやく掴んだ新しい職。

ようやく見えた自由。

 

それらはいとも簡単に

この手から離れていった。

 

ゲームのように

【ふりだしに戻る】ならよかった。

ゲームのようにいかないのが人生。

私は奈落の底に堕ちた。

 

どう這い上がればいいのか。

這い上がれるのだろうか。

遠くに点のように見えるだけの光。

近くで大きく光っていたはずのに

簡単に遠ざかる光。

 

もう諦めていた。

 

私には無理だったのだと。

そう言い聞かせた。

 

だけど。

 

新しい出会いがあった。

 

知人の紹介で始めたアルバイト。

そこには

こんな私でも受け入れ

笑いあってくれる人達で溢れていた。

私が立っているのも精一杯なときも

ただ待ってくれていた。

私が無理に笑っていることに気づいても

変わらず話しかけてくれた。

 

この新しい場所に連れてきてくれた人が

1番私のそばにいてくれた。

どんな私でも。

声をかけ続けてくれた。

私が笑っていても。泣いていても。

 

そして、

長年私を支え続けてくれている人は

私に『死ぬな』と言った。

どんなに辛くても、苦しくても

私は連絡をしないでいたのに。

見抜いていたようだった。

 

 

それから

市の福祉センター。

これからどうしていくか

親身になって考えてくれた。

<フードバンク>という制度を適用し

賞味期限切れの食料を分けてくれた。

バイト以外、誰かと話すことも無く

ただ夜になるのを待っている私に気づき

『ここに電話してきていいんだよ』と

『ここに来ていいんだよ』と

寄り添ってくれている。

 

 

いろんな人の優しさに触れて

もう少し…もう少し、

そう思うようになった。

 

自分がどこまでできるのか。

できる限りのことはしようと。

 

 

でも。

 

 

 

この世は残酷で冷酷で

足掻く足をもぎるように

私をさらに深い底へ引きずり込んでゆく。

 

 

 

私は明日から迎える6月。

家が無くなるかもしれない窮地にいる。

今住んでいるアパートから

退去しなければならないのだ。

 

7月からは福祉センターの力を借り

引っ越す予定だ。

だが、今、住むところがなくなっては

私は路頭に迷う。

シェルターはあっても

そこに入れば仕事が出来ない。

荷物も車も持っていけない。

完全な隔離だ。

 

もしかしたら

来月からこのblogも

更新できないかもしれない。

 

 

私は息すらしていないかもしれない。

 

 

そんな

更に深く、小さな光さえ見えない底で

明日が来ることを願う。

 

 

 

 

 

明日があるなら。

私は笑うから。

 

ーーーーー月詠みーーーーー

寿命

 

私が私らしくいられるのは

あと十数年だろう。

あと半年で31になる人間が

命のリミットを考えるなど早いと

言われるかもしれないが。

 

長時間立つことができない脚。

長時間座っていられない腰。

重力に耐えられなくなってきた首。

それらを支える肩、背中。

痛みに歪んでいく心。

痛めた全ての箇所が悲鳴をあげる。

 

きっともう、

足掻くにも限界だと思い知る。

 

母に縛られた27年。

元夫に縛り付けられた10年。

自分を棄てたときから20年。

 

もう一度自分を生きようと決めた今。

 

全てが重くのしかかる。

 

 

 

あと10年。

 

そのうち何年を元夫に費やして

借金に追われて

身を削って仕事して

借金を返していくんだろう。

 

返し終えたとき

私に何が残っているのだろう。

 

 

最近そんなことばかり考える。

 

 

それなら。

 

 

限りある生活の中で

少しでも小さな幸せを拾って

自分らしい時間の中で

まだ見ぬ景色や文化に触れて

私らしく生きたことを刻んでいきたい。

 

 

大切な人たちの中で

大好きな笑顔に会いに行って

泣いて笑って

穏やかで優しい時間に包まれていたい。

 

 

そして、

大切な人たちの背中を見送りたい。

 

 

 

 

私が私らしく生きるために。

 

私は人生最大の分岐点に立つ。

 

この選択が正解か不正解かは

きっと自分次第だ。

 

これから先の私が決めること。

 

今の私が決めることじゃない。

 

どうなるか、どうしていきたいか、

今の私が決められること。

 

今の私が決めたことなら

未来の私は

たとえ間違いだったとしても

笑っていられると思うから。

 

未来の私のために

バトンを繋ぐよ。

 

 

私が私らしく生きられる寿命。

 

 

 

私は

 

 

 

笑っていたい。