ぽンすけ。ブログ

主に闘病記。タイトル【欠陥品】は病気の発症とされる時期(生い立ち)について。毎月末に【月詠み】として1ヶ月の軌跡をまとめています。他は思ったこと、言えないこと、言いきれない想いを綴ってます/⚠閲覧は自己責任

欠陥品③

兄が小学生になったとき、勉強机を祖母が買っていた。その買い物に同行していた私は、自分の分も買って欲しいと祖母に迫った。兄が持ってるものは全部欲しがった。同等、いやそれ以下に兄を見ていたのだろう。

(お兄ちゃんだけ買うなんて許せない!)

子供ながら兄をライバル視していた。悪く言えば、自分は兄より優れていると思っていたのだろう。

兄と私の勉強机の間に大きな本棚を置き、互いの机を渡るように、父が買ってくれた電子ピアノを置いた。兄と同じ物を欲しがるくせに、兄と肩を並べるような配置は嫌がった私。そう母から聞いた。


母は、兄を溺愛していた。

父は、私を溺愛していた。


私が保育園に通いながらピアノやゴルフ、テニスを始める一方で、
母は兄が小学生になった時点で水泳や剣道、習字を習わせた。

兄は身体も弱く、保育園ではいつも園児に苛められて泣いていた。

そんな兄を母は変えようとしていたのだ。


そんな兄の姿が羨ましかった。

だから私も小学生になって、兄と同じ習い事をした。小学生にしては多忙なスケジュールだ。
だが、母に「兄より私は出来る!」ということを見せたかった。その一心だった。

結果は何もかも、私が兄を追い越していった。

当然だ。兄は身体が弱い。スポーツなんて続くわけがなかった。母は落胆した。

私はそんな兄の落ちこぼれぶりが嬉しかった。

(お母さんに誉めてもらえる!)

誇らしげだった。

兄が階段から突き落とされたことなんて、すっかり忘れていた。




次は私だった。



母は私を見なくなった。
テストで100点とっても「当たり前」の一言。
習字で賞をとっても、「下手くそ」の一言。


それなのに、

テストで100点とれなかったら殴られた。
習字で賞を逃したら殴られた。

兄には「次はがんばれ」って言うのに。

私は殴られた。

小学校の宿題で出される漢字、計算ドリル。

1ページ解き終えて宿題クリア。
すぐに終わらせてピアノの練習をしていると、
剣道の防具セットを引っ張り出して、竹刀で殴られた。


「5ページやれ」そう言われた。


ピアノの練習もしなければいけない。焦る私。
なんとかやり終えると、母が近づいてくる。

(もう怒られない。大丈夫。)
そう自分に言い聞かす。


「………やり直し」


そう言うと、母は消しゴムで全部消した。

それを毎日、繰り返された。


ピアノを弾く手は、竹刀で殴られてうまく動かない。


そんな日が続き、ピアノが弾けない私に父は気づく。

私は黙るしかなかった。

そんな姿を見ていたのだろう。

父に気付かれたくないのか、母は殴る場所を背中に変えた。

更に、とある教育商材(進◯ゼミ)を取り寄せ、勉強の量を母は増やした。


いつの間にか、ゴルフもテニスも水泳も行く暇がなく。習い事は減った。


習い事が減るということは、家に居る時間が長くなるということだ。

剣道は一度は大会に出たものの、家から1時間以上かかる道場だったため辞めた。

勉強の時間が無くなるからだ。


私に残ったのは、ピアノと習字。


ピアノだけが、当時の生きがいだった。

ピアノを弾いてるときだけは、母は何もしなかった。ただ聴いていただけだった。


音楽に関しては父の監修。そう線引きしたのだろう。


当時流行っていたアニメ「地獄先生ぬ~べ~」なんて見れなかった。

何度か勉強しながら見れないかと思い、机に鏡をおいてみたりしてみたが、母にバレてその鏡で殴られた。

嫌がらせのように母はアニメを流す。


だからオープニングテーマ曲に耳を傾け、母が仕事でいないとき、思い出しながらその曲をピアノで弾くのが楽しかった。

(どんな人たちがいるんだろう。妖怪かな?)

そんなことを考えながら弾く。楽しかった。


そして、そんな生活が続いた日に母は出ていった。


その前日。
私は両親の喧嘩を初めて目撃していた。


いろんな紙をテーブルいっぱいに並べ、母は父を怒鳴っていた。父はただ、下を向いていた。


しばらくの沈黙のあと、父はようやく顔をあげた。
そのとき、母を見つめる父の目は、背筋が凍るほど冷たかった。

いつもニコニコしていた父が。

怒りなのか何なのかわからないが、殺意にも思える目をしていた。

私は思わず息を止めた。

それまで私は、
(早くお父さんとゲーム一緒にしたいな~)

…なんて思いながら、子供部屋でハイパーヨーヨーで遊びながら呑気に喧嘩が終わるのを待っていた。


母が怒鳴ることなど日常茶飯事だ。
それも父が相手ならすぐ終わるだろう。


そう思っていた。でも違っていた。


その後、父は1人で出掛けた。
母は泣いていた。



(お母さんが泣いてる…?)


これもまた、初めての光景だった。
母の涙など、見たことなんてなかったのだ。


あまりの衝撃が続き、この日この後、どう過ごしたのか覚えていない。


そして次の日、母は出ていった。


父は何も言わなかった。


私も、何も言えなかった。


小学3年生。肌寒い日だった。


この日を境に、我が家に新しいルールが決まる。


「電話は一切出るな」
「インターホンにも応じるな」

「1コールで電話が切れて、すぐまた電話が鳴ったらそれはお母さん。その電話は出ていい」



「学校行事(授業参観等)には不参加で紙を提出しておくように」



母が出ていってから数日後、

インターホンがなり玄関に行くと、カップラーメンや食パンやらの食料が沢山入った袋の中から、そんな手紙が入っていた。


母を探したが、誰もいなかった。


それを後で父に見せた。



その翌日。父は出ていった。



小学5年の兄と、小学3年の私。



兄妹2人の生活が始まった。