ぽンすけ。ブログ

主に闘病記。タイトル【欠陥品】は病気の発症とされる時期(生い立ち)について。毎月末に【月詠み】として1ヶ月の軌跡をまとめています。他は思ったこと、言えないこと、言いきれない想いを綴ってます/⚠閲覧は自己責任

欠陥品⑨/異変

 

ソフトテニス部の12人の最強軍団が卒業。

部員は新3年生が3人。

私たち新2年生は5人。

1年生の新入部員が4人。

 

一気に選手不足に陥った。

 

私は先輩と顧問の先生と相談し、

学校のグラウンドの隅に自分たちで

テニスコートを作ることにした。

 

中学校の近く、海まで5分の距離に

町営のテニスコートがあり、

部員も多かったため今まではそこを借りて

練習していた。

 

だが総勢12人にまで減ってしまった為

4面ある町営コートを独占して使用できる

状態ではなくなってしまったのだ。

 

毎日、借りられて2面。

土日となれば町のテニスクラブの方々が

集まってしまうので1面しか

使えないことも少なくなかった。

 

そこで、グラウンドにテニスコート

作ることを私が提案したのだ。

 

先輩も顧問も納得してくれた。

 

移動時間も短縮にもなるし、

グラウンド隅にある部室の外壁で

壁打ちしていた時間をコートで有意義に使うことが出来る。

 

家から自転車で40分かかる学校へ。

私は誰よりも早く登校して、先生を待つ。

学校で飼っている雑種の犬「なんちゃん」と

話をしながら待っていた。

 

無論、独り言に過ぎないが。

 

なんちゃんの面倒をみている国語の先生(通称うっちー)か、顧問の先生か。

どちらかが到着して学校を開け、

部室の鍵を渡してくれるのを待つ。

そしてすぐ壁打ちを始める。

 

 

そんな私の姿を見ていた顧問の先生が

誰よりも理解し、賛成してくれたのだ。

 

一気に弱小チームとなった私たちにできる

精一杯の悪あがきだった。

 

 

コートを作るにはまず、コートを含めた周辺を平らにすることが不可欠だった。

 

朝練はコートとなる周辺をタイヤを押して走る短距離ダッシュへ変更。

放課後の練習が終わったあとは、

町営のテニスコートから学校に戻り

野球部からローラーを借りて土固め。

コートの線は縄で正確に打ち込んだ。

ネットを張る支柱は、顧問の先生がどこからか持ってきた。

そのときの先生のドヤ顔は部員全員で笑った。

 

全てが手作りのテニスコート

部員全員で大切にしようと決めた。

 

その効果は抜群で、私は部員の同級生と

朝6時半には合流して、

そのコートで打ち合いをした。

 

顧問にお願いして、こっそりと

放課後の練習が終わった後

学校に戻り個別指導もしてもらった。

 

その先生は元々、別の中学校の男子テニス部の顧問で県大会優勝へ導いた人。

 

その腕前、指導力。的確なアドバイス

私は先生を打ち負かす…ということが

目標となっていた。

 

穏やかで滅多に怒らない。

他の生徒には頼りないと言われながら、

決して怒らずニコニコして。

ガラクタばかり作るようなただの技術の先生。

某教育番組に出ていた『ワクワクさん』。

そんなイメージの先生だ。

 

でもテニスのことになると目の色が変わる。

そういう先生だった。

 

 

 

私がテニスに夢中になってる頃、

兄は高校生になった。

電車を2度乗り換えないと行けない高校。

家から駅までは歩いて5分の距離。

 

だが、

 

毎朝母は兄の迎えにくるようになった。

たかだか歩いて5分の距離を歩かず

母に送って行ってもらっていた。

時には学校まで送って行っていた。

 

ふざけた話だ。

 

どんどん兄に対する嫌悪感が強くなった。

 

そして、母に対しても。

 

そんな兄は高校でソフトテニス部に入部した。

今までろくに運動なんて出来ず

逃げていた兄が。

よりによって私と同じ競技を選んだのだ。

 

 

最初に母が私に買ってくれたラケットは

『処分品』という

ポップがついた籠の中に埋もれていた、

1000円の安いラケットだった。

 

それに対し兄は、何も知らないくせに

ブランド物ばかり選び買ってもらっていた。

 

 

この格差。もう何も言えなかった。

 

 

今思えばだが、

『処分品』と貼られたラケットは、

私にはお似合いだ。

家族に見離されたのだから。

 

 

だが、兄がテニス部に所属していたのは

高1の夏まで。

結局『初心者は大会に出れない』と

そんな理由だけで簡単に辞めた。

 

兄は昔からそうだった。

 

祖母に『ガンダムのプラモデル』を

買ってもらっても、1度も封を開けず

ただ眺めてるだけ。

そのくせペイント用のペンも買ってもらう。

 

何がしたいのか、全く分からなかった。

いや、何もしたくないのかもしれない。

 

私は簡単にテニスを辞めた兄を軽蔑した。

 

母も当然のごとく落胆した。

 

兄はコンビニでのアルバイトを始めた。

 

 

兄がテニスを辞め、1度は兄のラケットを

使うように母に言われた。

だが顧問の先生からの助言もあり

私向きのラケットに買い換えてもらった。

 

『処分品ラケット』は1年弱の役目を終え

すっかりボロボロになった。

私は最後にガット(網の部分)を張り替え

自分が辛いときを共に乗り越えた同志として、部活のロッカーにしまった。

 

 

 

そんな頃から兄に異変が。

 

 

 

学校から「登校してません」

 バイト先から「出勤してません」

 

 

そんな連絡が母に入るようになった。

 

 

兄は、母に学校まで送ってもらったあと

学校の門を通らず、そのままサボっていたのだ。

 

 バイトは地元の温泉で掃除兼案内スタッフとして働いていたはず。

 

 

どこまでも自分勝手で、無責任。

 

 

母のイライラの矛先が私に向くことを

兄は知っててやってるのだろうか。

 

 

 “どこまで私の邪魔をするんだ”

 

私は兄に対してそう思うようになった。

 

 

当時私は中学2年。

大事なテニスの大会を控えていたのに。

 

母は私に、兄の監視を命じた。

 

 

・兄が帰ってきたら電話する。

・兄に異変があったら電話する。

 

 

私には無頓着なくせに。

 

兄の監視など私に出来るはずがない。

 

母は忘れていたのかもしれない。

兄の中に秘められた凶暴さを。

 

事実、被害者である私が

母に泣いて訴えても信じてくれなかった。

 

後に、母は後悔することになる。

 

だが当時は“反抗期”くらいにしか

母は思ってなかったのだ。

 

 

私は母に兄の状況を連絡する度、

震えていた。

 

兄が睨み付けるからだ。

 

首に手を回され、いつでも首が絞められるような状態で

母と私の電話の内容を聞いてることも

少なくなった。

 

 

私の中で消化しきれない想い。憤り。

 

 

察したのは、テニスの顧問だった。

 

 

「全部ぶつけてこい」

 

大事な大会で先生にそう言われ、

続けてこう言った。

 

「お前は優しすぎる。気を遣いすぎる。」

「でも俺が知ってるお前はそれだけの人間じゃない。」

「誰よりも負けず嫌いで努力家だ」

 

「だから、ぶつかっていけ。お前は出来る」

 

泣きそうになった。

 

先生だけは気づいてくれていた。

 

応援席に母がいなくても、弱小チームでも

私は私だ。

 

その大会(個人戦)で私はベスト8になった。

 

4強には入れなかったものの、

我が中学校としては初の快挙だった。

 

先生は私よりも泣いていた。

 

 

帰宅して真っ先に母に連絡をした。

 

けど、返ってきた言葉は

「優勝以外あり得ない。無様。」

「それより、お兄ちゃんは?」

 

 

もうショックすら受けなかった。

当然のことだ。

私に対しての態度は昔からそうだ。

この頃にはもう、何も感じなかった。

 

 

テニス部先輩の引退、

そして先輩と部員からの指名で

私が新部長に決まった。

 

副部長は私とペアを組んで、ベスト8まで

勝ち進んだ相方を逆指名した。

 

温厚で平和主義、トロいけどがんばり屋。

何より人に愛される相方だからだ。

 

私は私自身が強くあり続けるために、

部員のサポートをお願いした。

相方なら私の我の強さも中和してくれる。

 

 

そして中学2年の冬。

 

地元は海の町。滅多に雪など降らず

地元を離れた今だから思うが、

言うほど寒くない、そんな町。

 

 

そんな私に新たな試練が待っていた。

全ては強くなるあるために。