ぽンすけ。ブログ

主に闘病記。タイトル【欠陥品】は病気の発症とされる時期(生い立ち)について。毎月末に【月詠み】として1ヶ月の軌跡をまとめています。他は思ったこと、言えないこと、言いきれない想いを綴ってます/⚠閲覧は自己責任

欠陥品④

幸いなのかどうかは分からないが、そんな私の家の事情なんて、近所の人たちは知らなかった。

私が生まれ育ったところは、母の故郷。超高齢化の小さな町。

(現在はとあるアニメの聖地になり、一部では活気づいている)

当時は道路を通るのはお爺様お婆様の自転車または歩行。
堂々と走っていいはずの車は、ご高齢の方々の後ろをノロノロ走る。
そんな町だった。

もちろん少子化も進んでいた。
小学・中学共に2クラスしかない町。
人数は1クラス30名に満たない。
クラス替えなんてあってないようなものだった。

そんな小さな町だからこそ、ほとんどが両親共働き。
祖父母に育てられたような子供ばかりだった。

少なくとも、私たち兄妹それぞれの同級生共にそうだった。

親同士も同級生で尚且つ同郷なんてのは当たり前。

だから「仕事で両親が家にいない、町から離れたところで働いてるから帰りが遅い」なんてのも当たり前の町。

知らずのうちに、町の子供はわずかに残っている家業を営む家に群がり遊ぶ。

それが当たり前になっていた。

親同士も容認していた。

だから、私たち兄妹の家の事情なんて誰も気づかなかった。

「あの家は共働きで帰りも遅いから」

…くらいにしか思われてなかっただろう。
実際に両親のことなんて誰かに聞かれたこともない。

私も、誰かに話すことはなかった。


『当たり前』だったからだ。


親に殴られるのも、その上見捨てられるのも、当時は辛いと思わなかった。

学校行事に親が来ないのも、周りもそうだったから苦ではなかった。


兄と2人の生活も苦ではなかった。
学校の給食もあるから飢えることはない。
目に見えて痩せていく、なんてこともなかった。

だから誰も気づかなかったのだろう。


特別、兄と話す話題もない。
家の中は静かだった。


当時、私の趣味は『カセットテープ』。
母からの支給物資の中に時折紛れ込んでいるCDが入ったTSUTAYAのレンタル袋。
すかさずラジカセにセットし、録音した。
使い方は父が教えてくれていた。


そのカセットテープに自分でタイトルを付けラベルを綺麗に貼る。
曲名も曲順通りに書いた。
それが趣味であり当時の宝物だった。


歌詞ノートを作るようにもなった。
当時はネットなんてなかったし、書き留めておくしか方法はなかったからだ。


ダビングしながら歌詞を書き写して、
後日そのノートを見ながら曲を聞く。

至福の時間だった。


兄は音楽に興味はなかったため、共有することはなかった。


唯一、ゲームはした。


でも友達とやるほうが楽しくて、兄と一緒にゲームするのは稀だった。


そんな日々から1年。
私は小学4年になった頃、通っていた小学校で行っている『音楽団』に入った。

母の母校でもあったし、母は中学から高校までフルートを演奏していたということもあり、了承してくれた。


但し、条件が2つ。


1つは、ピアノの塾の回数を減らす事。

もう1つは『金管楽器以外』という事。


母と同じようにフルートを演奏したかったが、「お前は気管が弱いからダメ」

…と、金管楽器全般を却下された。


となると、残された選択肢はパーカッション。


『地味』


そんな風に当時は思った。
舞台の上では一番後ろ。

『聴こえてるのか分からない』

そんな風に思った。それでもやりたかった。

今まで1人で楽しんでいた音楽を皆で共有できる。
その一体感に憧れた。

色んな感情を抱きながらパーカッションを選んだ。


パート練習で先輩がドラムを叩いていた。

『やりたい!』

一瞬にして心変わり。

でも与えられた楽器は「グロッケン」。

鉄琴よりも小さく、見た目はまた地味。


適当に叩いた音は甲高く耳がキーンとした。

でも先輩が叩くと全く別の楽器のように、高い音が響き綺麗な音色だった。


『なぜこんなにも違うのか?』


どんどん魅了されていった。
放課後の練習が楽しみで、どう演奏するのか、今日はどんな音色なのか…

毎日が楽しかった。


そんな日々が続いた頃、事態は更に一変する。




――兄の反抗期がやってきた。