ぽンすけ。ブログ

主に闘病記。タイトル【欠陥品】は病気の発症とされる時期(生い立ち)について。毎月末に【月詠み】として1ヶ月の軌跡をまとめています。他は思ったこと、言えないこと、言いきれない想いを綴ってます/⚠閲覧は自己責任

年詠み〜2021〜

 

2021年は、

「たった一つの出来事が私の人生を180度変えた」

そんな一年だった。

とてつもないスピードでそれは私を襲い、

今もなお余力を残し漂い続ける。

 

ーいつまで続くのだろうか…ー

 

つい返事のない問いが漏れる。

ただ今は、めげずに立ち向かった一年を振り返る。

 

 

 

 

ーーーーーー年詠みーーーーーー

 

 

 

2月中旬、なんともない日の深夜。

いつものようにYouTubeを見ながら、

息が白くなる部屋の中で眠りにつくのを待っていた。

 

引越しの相談を職場の先輩にして、

休みの日に不動産へ行っては悩む日々。

仕事は部署替えがあり

念願のインターネット回線を担当する部署へ異動したが

上司や同僚の知識の無さや、間違った情報、

何の意味も見出さない研修に精神的に参っていた。

 

YouTubeが流れていないと眠れない。

眠れたとしても2時間程度。

そんな日が続いたあの日。

 

突然、顔の左半分に痛みが襲った。

切りつけられたような、焼かれているような

治るどころか強くなる痛みに悶えた。

職場の先輩に何とか電話をしたが、痛みで口を動かせず

泣きながら訴えた。

 

翌日、通っていた整体の先生を通じて

ペインクリニックに緊急で診てもらった。

 

診断は『帯状疱疹

 

1週間仕事を休み、そのあとは強引に出勤した。

 

話しにくさは残るものの、ある程度顔面の痛みが引いた頃、

今度は左の肩甲骨に激しい痛みが走るようになった。

それは毎回突然で、痛みで息ができなくなるほどだった。

痛み止めで誤魔化し、引き続き仕事を続けていると

その1週間後には左腕の痺れ・倦怠感の症状が出始めた。

 

仕事終わりで遅い時間になっても、

体調を気遣ってくれて診察してくれていた整体の先生に

症状の変化を都度伝えていたのだが、

整形外科への診察を促された。

 

結果『貧血』と診断されて終わった。

 

痛みはみるみるうちに全身に拡がり、

左足の痺れ・倦怠感・脱力感、

右の肩甲骨の痛み

ついには右手足も左と同様の症状が出るようになった。

 

いよいよ職場の上司が事の大きさを感じ、

町の脳神経外科への外来受診を勧めてきた。

言われた通り受診し、経緯を伝えると

触診や手足の反応テストをいくつか実施した上で

『確かに貧血だけどそれが原因ではない』

『一刻も早く詳しい検査が必要です』

そういってあっという間に大学病院への受診を手配した。

 

ここに到達した頃には、季節は初夏になっていた。

 

2月に発症してから約4ヶ月だ。

 

5月にはもう痛み止めも効かず、

一切仕事に行けなくなっていた。

 

焦りと痛み。不安。

 

どんどん追い込まれていった私は

家から出ることすら出来なくなっていた。

 

そして7月。

大学病院へ。

9時に診察が始まり、終わった頃には13時を回っていた。

 

告げられたのは

視神経脊髄炎スペクトラルの疑い』

 

目の神経含め、神経が死んでいく難病である。

 

2週間の検査入院をその場で告げられた。

親族にも連絡しておくようにとも。

 

その後、どうやって生きていたか覚えていない。

 

母親に連絡しなければいけない、という恐怖。

1人でどこまで治療できるのかもわからない不安。

疑いであって自分は違うだろう、と楽観的な気持ちとでごちゃごちゃだった。

 

常に最悪の事態になった場合のことを考える私だが、

どれが最悪な事態なのかがわからない。

そんなことは今までの人生で初めてだった。

 

 

検査入院というもの人生で初めて。

何が持ち込めて何が持ち込めないのかさえわからない。

例えば、

コーヒーは飲んでいいのか?

お菓子は食べていいのか?

どんなお菓子なら迷惑にならないのか。

そこからだった。

迷うたびに院内の相談窓口に電話した。

 

会社には長期休暇の申請。

生活の補助をお願いしていた市にも必要手続きを聞き、山積みの書類とまとまらない荷造りに追われた。

 

 

検査入院中も辛いことしかなかった。

でもこの入院が今の私に繋がっている。

 

 

検査結果は

『機能性神経症状』

 

当初告げられていた脊髄炎については

まだ発症はしておらず、経過観察となった。

 

この結果がまた新たな疑問や不安を生んだ。

まだ発症していないにも関わらず

同様の症状が既に出ているということだ。

 

神経が異常に活発化していて

それが痛みや痺れとして現れているという。

それが『機能性神経症状症』と説明されたが、腑に落ちない自分がいた。

 

もっと簡単に言えば

『脳神経には異常ないです。

きっと精神的な負荷が原因で神経が暴れてるのかも』

 

という、とっても曖昧な診断だったからだ。

 

私が抱えている精神疾患のせいだろうとも言われた。

 

…今更ではないか?

 

そう思ってならなかった。

それはこのブログを書いている今もそう感じている。

 

最低でも5年は経過している。

精神疾患だと診断されてから5年。

おそらく発症したのはもう20年も前の話だ。

 

 

慣れない東北の寒さや

水道管凍結で水が出ない生活を送ったり

仕事以外のことでもストレスはあったと思う。

単純に免疫が低下していた。

だから帯状疱疹になった。

心も体も疲弊していたのは事実だ。

 

でもこれは自分が紐付けた見解であって、

医師は誰1人そこに触れない。

 

 

難病であって欲しかった。

 

 

そう思ってしまった。

 

 

精神科の受診を促され、

診察という暴露大会が開催され

処方されたのは鬱病の薬。

 

9月になった頃には

何のために病院に通っているのか

仕事を休んでいるのかわからなくなった。

 

主治医に無理を言って、10月には職場復帰した。

たった3時間の勤務ができなかった。

呼吸は浅くなり、全身に力が入らない。

4日間が限度だった。

 

情けない。

難病でもないのに動けない身体。

何にも揺さぶられない感情。

 

 

私が向かったのは、通っている大学病院。

入院病棟だった。

 

検査入院中、お世話になった先生の元に向かい、

『今までありがとうございました』

そう笑顔で伝えた。

 

実は入院中、

大学病院では普通らしいのだが

教授大行進が毎週水曜日に行われていて、

突然、十数人の教授に囲まれたあとパニックを起こした。

それを見逃さず一度退室した医師が

大行進を抜け出して戻ってきてくれて対応してくれた。

それがその後決まった入院中の担当医、渡部先生だ。

 

大学病院は入院病棟と外来の担当医がそれぞれいて、

退院後は外来担当医に引き継がれる。

そのため、一番の理解者だった渡部先生には

退院した時点で診てもらえなかったのだ。

 

渡部先生は退院後の治療ビジョンを一緒に考えてくれていた。

以前飲んでいたパニック障害の薬も伝えていて

今後服用した方がいい薬まで相談して決めてくれていた。

 

そんな渡部先生に私は全てをぶつけた。

 

『今までありがとうございました』と伝えた後に

渡部先生が考えてくれた治療ビジョンは

見事に外来担当医によって粉々にされたことや、

視神経脊髄炎の治療もストップになってしまったこと、

鬱病や癲癇の薬を処方されていることを告げた。

 

渡部先生は

「疲れたね。頑張ったね。」

そう言ってくれた。

「治療、やめたくなった?」と言われ、

私は頷いた。

 

   『だから、最後に会いにきた』

 

そう先生に言うと全てを悟ったようで、

「僕が外来やってる病院においで。」

「ちゃんと食べて、薬飲んで」

「僕の病院に来ること。約束して?」

 

この時私はすでに、

死ぬことを選択していた。

この病院を出たあとに…と決めていた。

だから先生が涙目になりながら差し出してきた小指を、

ただ眺めることしかできなかった。

『約束、できないよ』そう言ったとき私は泣いた。

ダムが決壊したみたいに泣いた。

「約束するまで僕は仕事に戻らない」

先生も泣いていた。

 

私よりも頑固で

入院中、何度も言い合ってぶつかったけど

歳が近いのもあったし

何より嘘をつかない先生に心を許していた。

好きな曲やアニメをお互い勧めあった先生。

その先生が泣いている。

 

私は先生と指切りをした。

 

 

渡部先生は毎週月曜日、

福島県郡山市にある古巣の病院で外来医を続けていると、

入院中に聞いていた。

 

その病院で月に2回、外来受診することを約束した。

 

実際、この約束を果たせたのはそれから約1ヶ月後。

11月になってしまっていた。

 

そう簡単に県外受診はできず、

医療費を全額負担してくれている市からの

許可が下りなかったのだ。

 

渡部先生がいる診察室に入ったとき涙が出た。

 

『やっと来れた』

「やっと来た」

第一声は2人同時に発せられた安堵の声だった。

 

もう一度検査をし直して、

脊髄炎が陰性になっていないか調べたけど

やはり陽性のままだった。

渡部先生が信頼している同じ病院内の精神科医と連携して

治療を進めていく方針となった。

 

だが、

市から県外受診を許可するための条件があった。

 

【通算2回までの受診のみ可。】

【それ以降は一度仙台の病院にて受診し、

それでも県外受診が必要だと判断した場合再申請を要す】

 

この条件は渡部先生にも市から連絡があり、

どうすべきか先生も頭を抱えていた。

 

 

郡山市に引っ越すよ』

 

 

私は覚悟を決めていた。

 

 

会社の上司にも提示された条件を伝え、

福島に行くべきか仙台に残るか相談していたのだ。

症状が出てから約10ヶ月、

都度サポートしてくれた上司。

【ぽんちゃんの身体がよくなることが第一優先】

そう言って引越しを後押ししてくれた。

 

 

そして12月。

私は今、福島県郡山市にいる。

引越し中、車破損の事故はあったものの

先生や友達の助けもあって

何とか日々を過ごしている。

 

私が抱える恐怖症のひとつ、

公共交通機関(バス)にもチャレンジした。

結果は良好だ。

車を修理する事が出来ず、

己の脚か公共交通機関に頼るしかない状況になり、

そんな状況をも、楽しもうと思う自分がいる。

 

それは、渡部先生を初め

支えてくれた職場の先輩や上司、

そして友の存在がそうさせてくれた。

 

来年には仙台に戻る予定を立てているかもしれない。

はっきりとは何も決まっていない。

まだまだ悩みながら

痛みだけではなく不安や寂しさとも

闘っていかなければならない。

 

きっと、心が癒えることはないだろう。

 

それでも、少しでも、

『生きて欲しい』『元気になって欲しい』

そういうみんなの想いに

応えられる自分でいようと思う。

 

 

ーーーーーー年詠み[完]ーーーーーー