ぽンすけ。ブログ

主に闘病記。タイトル【欠陥品】は病気の発症とされる時期(生い立ち)について。毎月末に【月詠み】として1ヶ月の軌跡をまとめています。他は思ったこと、言えないこと、言いきれない想いを綴ってます/⚠閲覧は自己責任

年詠み〜2018年〜

 

 

沢山の出逢いと

沢山の笑顔と涙。

全ての方にありがとう。

 

 

ーーーーー年詠みーーーーー

 

 

全ては1月27日の

賽助先生のサイン会から始まった。

心療内科に入院し

退院からわずか2ヶ月も経たぬ時期に

私は人生初のイベントに参加した。

そこには今まで見たこともない、

想像を絶する光景が広がっていた。

外部との接触を遮断されていた入院生活。

退院しても引きこもっていた私にとって

地獄絵図のように見えたのを

鮮明に覚えている。

 

行き交う声が

全て自分に向けられたものだと錯覚。

笑い声ですら

怒鳴り声になって脳内に響き渡る。

 

【敵意を向けられている】

 

長期間、母から受けたDV。

その過去から抜け出すための治療。

職を失い

絶望の中で見つけた〈三人称〉の存在。

病気と向き合い、

【この三人に会いたい】

【鉄塔さんを間近で見たい】と

そのために動こうとした第一歩。

 

それは

 

失敗で終わった。

 

 

たった1人で

闘える病気ではないと痛感した日だった。

 

 

その日から

過去の自分を一つずつ

解放していく日々が始まった。

目を背けてきた過去。

自分の存在を否定し続けた過去。

 

2月13日。

亡くなった祖母の誕生日。

命日を知らない私は

祖母のお墓を目指し生まれ故郷へ。

 

未だ残る祖母の家の前で

幼い自分を見つめていた。

小さな庭を駆け回って

従兄弟と遊んだ日々。

日本酒を飲みながら

縁側に座る曾祖母の姿。

 

気づけば並びに建つ

従兄弟の家の玄関にいた。

私の姿を見た叔母は泣いた。

15年ぶりの再会。

敬語でよそよそしく話をする。

でも。

今まで言えずに隠してきた母からの暴力、

故郷を捨てざる負えなかった理由、

祖母のお葬式に参列できなかった真実。

 

自分の言葉で

話さなければならないと。

涙を拭うこともせず話し続けた。

 

叔母はずっと泣いていた。

小学生の私が背負っていたものを

必死に隠して笑顔で振舞っていたことを

何より

助けを求めることすら出来なかったこと。

そんな環境に気付けなかったと

叔母はずっと謝っていた。

叔母が悪いわけでもないのに。

 

一緒に祖母のお墓参りが出来た。

それだけで一つ荷物を下ろせた瞬間だった。

 

 

3月。

一つ荷物を下ろし、

同居人が単身出張で

家を空けるようになった。

母と同じようにDV行為を繰り返す彼。

私にとって

大きな岐路となる。

 

そこからは

挑戦の日々だった。

 

同月27日。

賽助さんが所属する和太鼓グループ

〈暁天〉の公開稽古。

初めて車で1人東京へ向かった。

抽選制度のため

サイン会よりは人数に限りがある。

何より

間近で演奏が聞けるチャンス。

私は挑戦した。

 

音楽の力とはやはり素晴らしい。

5人が力強く、

語るように奏でる音は

緊張や不安を吹き飛ばしてくれた。

その音に夢中になった。

発作が起きることもなく

ただただ、圧巻の日だった。

 

 

4月は同級生との再会を果たした。

小・中と共に過ごし

今もなお地元で働く大切な友達。

叔母と同様、

隠し通してきた過酷な生活を話す。

だがそこはやはり

同郷で一番の仲良しだった友人。

全て笑い飛ばしてくれた。

 

「小・中時代のあらゆる写真を

母に破られ燃やされた」と話すと

後日、LINEで写真を送ってくれた。

 

「また飯食いにいこう」

「話足りないからさ」と。

故郷の温かさを実感した。

 

そして

高校からの友人とも再会した。

唯一、連絡を取っているその人は

私が通院している心療内科の看護師。

病気のことも

同居人のことも

高校時代の思い出も

その人だけ共有できる。

唯一の存在だ。

それはこれからも変わらないだろう。

 

その頃から

元々イラストを描くのが好きだった私は

本格的にイラストを描くようになった。

 

その頃から

Twitterを通して

「病人はイベントに参加するな」

「周りが気を遣う。楽しめない」

「自粛するべきでは」という声が

耳に入るようになった。

 

ごもっともだ。

 

怪我のように目に見えるものではない。

何がキッカケで発作が起こるか分からない。

体調管理は出来るとして

心の管理は出来ない。

出来ないから薬を飲んでいるのだから。

言われて当然だ。

 

そう思うと同時に

理解されない病と

闘わなければならない辛さ、

三人称を知らずにいればよかったと

自分を責めるようになった。

好きでこの病になったわけじゃないのに。

私の存在自体を

否定されたと毎日泣いた。

 

それを救ってくれたのが

ネコ隊長と、けむそんだった。

 

 

6月14日。

私たち3人は

三人称どこイキ聖地巡りへ出かけた。

会うのは初めて。

顔も知らない。

私の病を理解した上で連れ出してくれた。

 

同月上旬にギックリ腰になった私を気遣い

休みながら廻ってくれた。

2人にどうしても

感謝の気持ちを形にしたくて

アナログで描いたイラストを

恐る恐るプレゼントした。

ファンアートを描き始めて間もなかったが

〈イラストをプレゼントする〉というのは

2人が初めてだった。

それほどまでに嬉しい日だった。

喜んでくれたときには

安心と共に幸せな気持ちになった。

 

そして同月23日に行われた、

台湾フェスティバルへ。

暁天が演奏するとのことで

どうしても行きたかった。

 

だが、

【病人はイベントに来るな】

その言葉が頭を過る。

迷惑ではないだろうか。

こんな私が見に行くなど…

 

けむちゃんにその話をすると

一緒に行ってくれると言った。

ネコ隊長も。

 

初めましての人ばかりで

暁天の演奏が始まるまでは

常に緊張していた。

頭にあるのは

【嫌われているかもしれない】

それだけだからだ。

 

ずっと隣にいてくれたけむちゃん。

人混みから連れ出してくれた。

発作を起こすこともなく

暁天の演奏を無事に見られたのは

この2人のおかげだ。

 

 

その場で

出会い、意気投合したのが

〈ホタテ〉と〈ナベ子〉だ。

 

この日をキッカケに

ホタテのキャスでコラボすることが

増えていった。

そこからたくさんの人と知り合い

いつしか

「クールビューティのぽンすけ」と

名乗ってはツッコまれるのが

恒例となった。

 

 

そして8月。

暁天の初単独公演

ワークショプ和太鼓体験(昼の部)に

当選し参加することとなった。

 

最後まで観ていられる自分なのか。

和太鼓体験中に倒れたりしないか。

不安でいっぱいだった。

 

以前から交流があり

台湾フェスで直接ご挨拶ができた、

〈なるの〉さんが一緒だった。

私の様子を見ながら

ずっと隣にいてくれた。

その安心感は大きかった。

 

舞台に上がっても

緊張はしたが純粋に楽しんだ。

暁天メンバーの優しさ、心意気。

何より演奏に涙が止まらなかった。

賽助さんがいるからと

入り込んだ世界。

その日をキッカケに

〈暁天〉そのもののファンになった。

 

 

その六行会で仲良くなった

〈にゃんこ〉さん。

賽助先生のサイン会があると

誘ってくれた。

私は断った。

場所は1月と同じ越谷。

怖かった。

でも、にゃんこさんは違った。

「一緒にいよう」と

私の病を知った上で言ってくれた。

 

その言葉に。

【リベンジしよう】と決めた。

 

サイン会は

トークショーも含め3回。

賽助先生と写真撮影可と

アナウンスされた。

 

1回だけでいい。

倒れなければそれでいい。

 

そう思いながら参加した。

 

結果私は倒れることもなく、

3部全て参加していた。

純粋に楽しかった。

賽助さんの笑顔に幸せをもらった。

 

次の日。

カフェイン大量摂取が原因で

下痢嘔吐が止まらない時は焦った。

カフェインではない水分補給が

大事なのだと学んだ。

 

 

次の挑戦は

9月2日。

わくわくフェスティバル東京。

抽選に外れていた私。

【病人はイベントに来るな】

そういうことだろうと、

腐っていた。

そんな私に声をかけたのが

ホタテとナベ子だった。

私は悩んだ。

【迷惑をかけるだけかもしれない】

【発作が起きたら…嫌われる】

そう思った。

 

でも。違った。

 

ホタテは医療関係の勉強をしていて

ネコ隊長やけむちゃん同様

私の病に理解があった。

ナベ子は「私が守る」と言った。

嬉しかった。

それだけで私は救われた。

 

当日。

Twitterやキャスで絡んでいる、

〈さしみ〉くんとも合流。

青磁〉さん、

〈マウたん〉さんが

一緒に行動してくれた。

初めて三人揃った〈三人称〉が

舞台に上がった時は

【ここまで来れた】のだと

号泣した。

隣にずっと立っていたさっくん

一生懸命声を掛けてくれた。

人混みに呑まれそうになっても

さっくんのバックを掴んで

必死について行った。

 

水分をしっかり摂りながら

休める時は休んで。

〈あにら〉ちゃん

〈きつね〉ちゃん

〈衣〉ちゃん。

〈あゆみ〉さん。

けむちゃんにはネコ隊長の分も。

この日のために用意したイラストを

出会った人に配りながら。

 

〈三人称〉最後のステージ。

トシゾーさんとのギャングビースト。

それは過酷を極めた。

身動きが取れないほど

人がギュウギュウに詰め込まれる。

呼吸が出来ない。

酸素が足りない。

隣で私を掴んでいてくれた青磁さん。

「もう少しだよ!」と。

鼓舞してくれた。

 

イベントが終わり

酸欠状態のまま必死に足を前に出す。

【最後まで見れた。大丈夫だった】

その安心感のあと

私は人波に呑まれて倒れた。

 

駆けつけてくれたのは

〈ハマ〉さんだった。

【ハマさんの声がする…】

そうして意識を手放した。

 

目が覚めると

みんながいた。

三人称の御三方には

迷惑をかけてない。

そう聞いた。

『あの人混みじゃ倒れて当然』と。

 

最後まで連れ添ってくれた、

ハマさん、でめきんさん、

ホタテ、ナベ子には感謝しかない。

 

 

それ以来、

ホタテ、青磁さん、さしみ。

私の中では友達のようになった。

 

〈ゆうな〉が東京に来ると聞き、

ホタテがゆうなと

夢の国へ行っている間に

さっくんと原宿へ。

B-SIDE LABEL(ステッカー屋)の

直営店へ案内してくれた。

原宿の人の多さに吐き気もしたが

さっくんは話し続けてくれた。

どうでもいい、

くだらない話ばかりだけど。

直営店に着いたときは

子どものようにはしゃいだ。

それはさっくんも同じ。

1人じゃ絶対に来れない場所。

感謝だった。

 

そのあと、ゆうなと合流。

ハマさんも遅れて登場。

誰もお酒を飲まない、

ただただ笑って楽しんだ。

 

 

私の誕生日の前祝いにと、

10月には大宮へ。

ホタテ、青磁さん、さっくん

集まってくれた。

オムライスを食べて

カラオケではしゃいで

PS4をその日に買った。

 

 

その週の土曜日には

〈WEN〉さんに会いに仙台へ。

 

その次の週の土曜日には

〈ぞんちゃん〉に会いに池袋へ。

 

私はいろんな所へ

1人で行くようになった。

 

 

そして。

11月1日。

30歳の節目の誕生日。

たくさんのフォロワーさんが

祝ってくれた。

 

色んな想いが込み上げてきた。

 

 

同居人からの独立。

これから私を覆う罪との闘い。

去年のこの日。

私は入院中だった。

【三人称に会えるように頑張る】

【同居人と別れる】

そう決めていた。

 

たくさんの人と知り合い、

直接会い、

たくさんの話をして。

生きること自体を

否定し続けていた29年間を

生きるための糧にしたい。

そう思った。

 

 

でも。現実は難しい。

 

11月8日。

同居人が私名義のカードで

作った借金200万円。

その返済をどうするか決めなくては

前に進めない。

そう思い単身東京の弁護士事務所へ。

 

現実は厳しい。

 

突きつけられた現実は

私が全て背負わなければならない、

誰が使おうと

名義人が私である以上

リスクは全部私が背負う。

目の前が真っ暗になった。

 

前に進もうとすればするほど

それを引き止めるように

目の前を闇が覆い被さってくる。

 

 

その三日後。

ホタテと一緒に

〈りんご〉さんと遊んだ。

 

その時は私の精神状態は

ボロボロだった。

 

みんなに祝ってもらった誕生日。

その前日から11月3日まで

同居人が帰省していたのと、

三日前に告げられた過酷な現実。

 

正直立っているのも精一杯だった。

 

それを汲み取るように

りんごさんは

「よく頑張ったね、偉いね」と

そう言った。

 

私は何も頑張っていないと。

ただ生きているだけだと。

本心ではそう思った。

 

抜け殻のような私。

 

11月21日には祖母のお墓参りへ。

命日だ。

これから私がしようとしていること。

本当はもう全て

命までも投げ出したいこと。

どうしたらいいか分からないこと。

 

でも。

闘わなければいけないこと。

前に進みたい気持ちがあること。

 

祖母の分のタバコに火をつけて

一緒に一服しながら

私は返事のない問いかけばかり

繰り返していた。

 

祖母が生きていたら

何と言ってくれたのだろうか。

家族と呼べる人がいない寂しさ。

祖母さえ生きていたら…と。

 

私は完全に自分を見失い始めていた。

 

 

その辺から

自殺行為を繰り返すようになった。

 

 

そして11月30日。

minatoの日。

 

完全に壊れた。

生きたい。

けど、逝きたい。

 

minatoに会えるなら

minatoを抱きしめられるならと。

 

私は

何度も繰り返していた自殺行為から

抜け出せず

笑顔の裏に涙を隠して

必死に明るく振る舞っていた。

それも、疲れてしまった。

 

 

死を、選んだ。

 

 

私が居なくても世界は回る。

私が居なくても

みんなは生きていける。

笑っていられる。

 

それなら

明るい私のまま、消えよう。

 

頭の中は

minatoのことしかなかった。

 

 

呼んでもいない救急車が来る。

「家族は?お母さんは?」

その言葉に

私は救急車の中で暴れ倒した。

 

繋がれた線を引きちぎり

救急車を降りようとする。

朦朧とする意識の中、

浮かんだのは叔母だった。

 

救急隊が帰ったあと

叔母がすぐ家にきた。

 

何を言われたかも覚えていない。

「明日迎えに来るから」

それだけが聞こえた。

 

目が覚めた時の

絶望と

動いてくれた仲間への感謝。

感情はグチャグチャだった。

 

夕方、

叔父と叔母がきた。

母の弟、叔父(かっちゃん)。

 

今の状況を全て話した。

 

過去のことも。

 

叔父はただ、悔いていた。

そして

『大事な姪っ子なんだよ、お前は』

そう言った。

『1人で背負うな』

『昔から変わんねーな』と。

『大事なことは隠すんだから』と。

 

そうだ。

私は大事なものにほど蓋をする。

間接的なことは話せても

本心は隠そうとする。

 

それは今も変わらない。

 

本心は、

本当の私は、

見せてはいけないのだ。

 

嫌われる。

離れていく。

 

母と同じように。

 

もう、棄てられるのは嫌だ。

置いていかれるのは嫌だ。

 

必死に伸ばした手を

振り払った母の姿。

 

私の真ん中にある【恐怖】。

 

それなら

みんなが求める私でいようと

閉じ込めて蓋をする。

 

でも。

それをこじ開ける人がいる。

その箱ごと壊す人がいる。

 

『いつまでも

そんなところにいるんじゃーよ』と。

 

引っ張り出す人がいる。

 

 

minatoのことがあってから

目を逸らしてきたイルミネーション。

その人と一緒に見に行った。

 

私は、ただ泣いた。

その人は、

ただ隣にいてくれた。

 

過去に呑み込まれていく私を

引きずり出してくれた。

『進め』と

背中を押してくれた。

 

 

私は。

人に頼ることを学ぼうと思った。

 

1人で闘えない大きな壁。

乗り越える知恵を

乗り越える力を、勇気を

仲間からもらえるなら。

また死ぬことを選択しないように。

 

私は【生きる】ことを選んだ。

 

だが。

それは重すぎる選択だった。

 

分かっていたのに。

【何かを得るためには何かを失う】

【何かを失う覚悟がなければならない】

 

分かっていたのに。

 

私は。

 

生きることを選択したことを

後悔することになった。

 

私には

高すぎるハードルだった。

 

 

自分で決着をつける。

1人で闘うんだと。

そう心に決めた。

 

【失う覚悟】なんていらない。

 

失っていくんだ。私は。

 

これからも。

 

だから

もう望まない。

 

 

平成が終わる頃には

この街を出て

新天地で私は歩き直す。

 

自分の人生を。

残り少ないであろう人生を。

 

 

この1年、

たくさんの人から

多くのことを教わった。

支えてくれた。

 

感謝、感謝の1年だった。

 

 

これから先は。

大丈夫。

 

笑顔の〈ぽンすけ〉で

有り続けようと思う。

 

私という存在は

〈ぽンすけ〉の中に隠していく。

 

幸せだと感じられるのは

〈ぽンすけ〉であるからこそ。

その幸せが

〈ぽンすけ〉を通して本当の私へ

伝っていく。

 

それが私の幸せ。

 

〈ぽンすけ〉と出逢い、笑い

支えてくれた全ての方に

 

 

 

ありがとうございました。

 

 

本当にありがとうございました。

 

 

幸せな1年でした。

 

 

来年もそう言えるよう

精進して参ります。

 

 

来年もよろしくお願い致します。

 

ーーーーー年詠みーーーーー