ぽンすけ。ブログ

主に闘病記。タイトル【欠陥品】は病気の発症とされる時期(生い立ち)について。毎月末に【月詠み】として1ヶ月の軌跡をまとめています。他は思ったこと、言えないこと、言いきれない想いを綴ってます/⚠閲覧は自己責任

星になった愛する人


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平成23年11月21日(享年73)

 

 

母方の祖母の命日。

 

なので今日は祖母について書こうと思う。

 

 

.+*:゚+。.☆大好きなばーば☆。.:*・゜

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母と祖母は仲が悪かった。

お互い歩み寄ろうとして、

お互いやっぱり合わない!と。

とてもよく似ていた。

 

母から聞いた祖母。

それは鬼のような人だった。

 

酒に溺れ、病に倒れた祖父。

一時帰宅をしては

毎日のように喧嘩していたと聞いた。

それはもう家が崩壊するほどだったと。

 

幼い母には6つ歳下の弟がいる。

何も分からずただ泣く弟を

母は必死に守ったと言う。

 

近くに住んでいた曾祖母のところへ

いつも逃げ込んでいたと聞いた。

 

学校のテストで100点取れなければ殴られ、

成績もオール5じゃないと殴られたと。

書道の大会で優勝出来なくて殴られたとも。

 

 

どこかで聞いたような話だ。

 

いや、聞いたのではない。

 

私が母にされたことと全く一緒だ。

 

 

若い頃の祖母は

とにかく周りの目を気にして

自分の子どもを追い立て、

「出来ないなら殺す」と

首を絞めるような人だったらしい。

 

 

だが、母の弟。

私からすれば叔父にあたる人には

溺愛していたらしい。

勉強が出来なかろうと

シンナーを吸ってようと

怒らなかったと。

 

「ちゃんと見てないお前のせいだ」と

姉である母が怒られたそうだ。

 

 

母は当時、地域トップの高校への

進学がほぼ確定していたそうだが、

受験当日にすっぽかして

海に飛び込んだと聞いた。

 

自殺だ。

 

 

そのとき、たまたま海にいた暴走族の頭に

助けてもらったと聞いた。

 

「そんなんじゃ死ねねーぞ」と。

言われたらしい。

 

受験をしてもいない高校へ

なぜか中学校側からの推薦として

入学することになったと母は言った。

 

行きたくもなかった学校だった。

生きたくもない世界だったから

ほとんど通わずに、

その暴走族の頭に引っ付いていたと。

 

その頭の彼女さんがカフェを経営していて

そこに入り浸っていたと聞いた。

 

そこでいろんな人と出逢い、

救われたと。

その当時の話をする時だけは

母は優しい顔になっていた。

 

 

お金もない。

祖父の治療費で手一杯で、

祖母が働きに出ていた。

だから母は大学の進学を諦め、

弟を高校へ進学させるために

看護学校(産婦人科)へ行った。

 

勉強しながらもお給料が貰えて、

寮生活だったから…と母は言っていた。

 

ただし多忙だったと。

 

授業を受けたあと、

お産の手伝いをしなければいけなかったと。

急患がくれば深夜でも対応したと。

寝る暇もなかったそうだ。

 

貰った給料は全部家に入れて、

実家にいる弟を養っていたそうだ。

当時、祖父は入院、祖母は仕事。

誰もいない家で

コーラとポテチがご飯だった…と。

叔父は笑って話してくれた。

 

「だから姉ちゃんを恨んでる」

…とも言っていた。

「そばにいて欲しかった」と。

叔父は寂しそうな顔をしながらも

笑いながら話していた。

 

そんな過酷な生活を送っていた母は、

そのとき腎臓を片方、ダメにしたと言った。

機能していないらしい。

 

私が知っている母は、

尿がうまく排出することが出来ず

日を追う事に妊婦さんのように

お腹が大きくなっていく姿。

 

その度に病院へ行き、

人工的に抜いてもらっていると言っていた。

 

だから私も社会人になり

腎不全手前までいってしまったときには

ものすごく怒られた。

 

 

そんな母は結局体調面で

看護士にはなれなかった。

ただ、栄養管理やそういった類の知識には

もちろん長けていた。

本屋に就職して家にお金を入れる生活を

続けていたそうだ。

 

そして、その本屋の近くの喫茶店

店長をしていた父と出会った。

 

当時、「町の人間と結婚する」というのが

小さい町ならではの掟だったそうだが、

反対を押し切り母は子連れの父と結婚。

 

すでにお腹に子どもを授かっていた母は

小さなアパートで

ひっそりと暮らしていたそうだ。

 

その頃の父は愛娘を突然失い、

フラフラと家にも帰らず働かず。

いつ死んでもおかしくない状態だった。

 

節約するために母は

キッチンのシンクで頭を洗っていたそうだ。

 

そこに、今まで猛反対していた祖父が

ご飯やらオムツやら、

いろいろ用意してくれたと言っていた。

「男の子じゃなかったら川に流す!」と

ふざけたことを言っていたらしい。

 

 

(先に生まれなくて良かった…)

 

 

実際、生まれた子どもは男の子。

祖父は大喜びだった。

真っ赤な服に真っ赤なズボン。

真っ赤な靴。

 

どうしてそれにした?と

母は思ったそうだ。

 

粉ミルクも全部祖父が用意したらしい。

 

そんな祖父を

呆れ顔で祖母は見ていたらしい。

死にかけなのは祖父だったからだ。

 

病が悪化し、腸を全摘出。

 

それでも孫に会わせろと騒いだらしい。

 

これからの生活を考え、

母は保険会社に途中入社。

そこで営業の才能が開花した。

売上は常にトップ。

元々、知識が豊富な母だ。

天職だったと母も言っていた。

 

「人の命を金に変えるのか!」と

バケツで水をかけられたり、

「命に値段をつけるなんて人間じゃない」と

罵倒されたことも少なくなかったそうだが

祖母から受けた暴力に比べれば

大したことはなかったと母は言っていた。

 

 

その頃、母は生まれ故郷の町へ戻った。

曾祖母が住んでいた家に招かれたそうだ。

そして曾祖母は祖母の家へ。

 

そして、私が母のお腹に。

 

 

「次はたぶん女の子だな…」

祖父は言っていたらしい。

そして、私が生まれる1年前。

 

昭和62年11月20日

 

祖父は息を引き取った。

 

 

約1年後。

祖父の予言通り私が生まれた。

 

 

立ち上がったのは祖母だった。

 

 

色白で生まれた私を危惧し

アトピーにならないように」と、

桃の葉をたくさん入れたお風呂に

祖母が必ず私を入れたそうだ。

 

物心がついたときから、

祖母の不器用な愛情に気づいていた。

 

 

一方で母が祖母の家に尋ねると、

私と兄は祖父が座っていた椅子に

必ず座り、誰かに話しかけていたと

母は言っていた。

決してその場から離れなかったと。

きっとそこに祖父が居たのだろう。

 

 

ツイキャスで話したこともあるが、

保育園に異例の0才で入園した私は

周りに男の子しかおらず、

自分も男の子だと思っていた。

 

そんな私が

自分は女であると認識した時

1番に喜び慌てて祖母が買ったのは

ヒョウ柄のスカート。

 

何とも不器用な人だった。

 

姉弟家族にも私の1つ歳下の女の子、

そして5つ歳下の男の子が生まれた。

 

祖母は誰か1人の誕生日には

孫全員分のプレゼントを買ってきた。

 

「喧嘩されても面倒だから」と。

 

大抵、1つ歳下の女の子、私の従妹には

色違いのワンピースや浴衣。

一輪車、当時流行っていたホッピング

全部従妹とセットだった。

 

 

ただ、私はそういうものは好まなかった。

行き着いたのは

ハイパーヨーヨーミニ四駆

文句を言いながらも

ミニ四駆専用のコースまで買ってくれた。

 

 

もちろん、成績には敏感だったが

口を挟まなかった。

その代わりマナーについては厳しかった。

 

「いつ何時に会っても

"おはようございます"と言うんだ。」

 

「目上の人より先に箸をつけるな。」

 

などなど。

 

当時は食事の席では緊張しかなかったが、

社会人になってその言葉の意味を理解し

祖母には感謝しかなかった。

 

 

最後に会ったのは高校に上がる前。

 

 

地元を離れるよりも前だ。

 

 

「ばーばは行きたいところないの?」

私はそう祖母に聞いた。

 

 

「沖縄かな」と。

 

前より小さくなった祖母は私に言った。

 

「わかった!!」

「みんなで行こう!私が連れてくよ!」

 

私が小学生低学年の頃までは

姉弟家族と祖母と一緒に

よく旅行をしたりしていた。

クリスマスは

地元に一軒しかないカラオケに行ったり

祖母の家で餅つきをしたり。

 

よく集まっていた。

 

5つ歳下の従弟と私はそっくりで、

よく姉弟に間違われていた。

それがどんどん疎遠になっていた。

 

母が家を飛び出し

父が蒸発したときには。

 

その頃に戻りたかったのだろう。

総勢9人という大人数で、

レンタカーを借りて

星の綺麗なキャンプ場のコテージに

よく泊まってはみんなで星を見上げていた。

 

あの頃に。

 

 

そんな願いも届かず。

 

 

私は地元を去ることになった。

 

 

地元を去るということは

故郷を捨てた…ということだ。

 

 

社会人になった頃。

誰かと電話をしながら母は怒鳴りながら

泣いていた。

 

電話の相手は祖母だった。

 

「かっちゃん(母の弟)が病気になった」

「ベイチェット病だって」

 

目が次第に見えなくなる病気だ。

 

続けて母は言う。

「かっちゃんが病気になったから

ばーば、酒もタバコも辞めるって」

 

「私だって病気なのに!!!」

 

……と。

 

「私はいいの?そんなに和也が大事?」

 

そう言って母は泣いていた。

 

 

母は【慢性リンパ腫】だと

中学生のときに聞かされた。

私が社会人になった頃には

腫瘍が脳にまでいっていて、

味覚もほとんど失われていて

左半身が痺れていると。話していた。

 

 

普段から嘘の多い母。

私を何度も殺そうとした母。

 

私はどこまでが本当でどこまでが嘘なのか

知らないままでいた。

追求する必要も無いと。

 

 

だが、泣き崩れている母の姿は

痛ましかった。

 

同時に「なんで生きてられてるの?」

とすら思った。ひねくれた娘だ。

 

 

それから数年後。

 

母の弟、かっちゃんのお嫁さんから電話。

 

「ばーばが倒れた」と。

 

【肺がん末期、余命3ヶ月】と。

 

母は

「死なれちゃ困る!謝ってもらう!」と

怒りながらもお見舞いに行っていた。

 

 

私には「来るな」と言った。

 

「お前が知ってるばーばじゃない」と。

 

私はいつも通り働くしか無かった。

 

 

そして、東日本大震災

 

 

そのとき、私は家族を捨てた。

 

前にもブログに書いたが、

生き地獄のような過酷な日々だった。

社員である私と、娘である私。

会社をとるか、家族をとるか。

その選択を母に迫られた。

 

 

私は、両方を捨てた。

 

 

当時付き合っていた彼の住む埼玉へ。

私は携帯も車も全部置いて、

母の前から消えることを選んだ。

 

 

逃亡期はあっという間で

その年の免許更新で警察からお呼び出し。

「捜索願が出てる。電話しなさい」と。

 

それからは彼の2台目の携帯(ウィルコム)で

母と連絡を取るようになった。

フワフワと現実味のない生活を送りながら

少しづつ母との溝を埋めていた矢先。

 

 

『ばーばが、死んだ』と。

 

泣きじゃくる母からの電話。

 

 

星の綺麗な夜だった。

 

 

星を見上げながら何度も謝った。

 

「沖縄の約束、守れなかった」

「1度も顔を見せられなかった」

「ごめんなさい…ごめんね…」と。

 

葬式に出るよう母に言われたが

1度戻ったら母から逃れられないと思い

「仕事、あるから。」と断った。

 

断腸の思いだった。

 

 

不器用で、厳しくて、

でも、優しくて。

沢山の愛情を生まれてきてからずっと

注いでくれていた祖母。

 

 

毎晩泣いた。

 

 

自分の至らなさ。悔しさ。弱さ。

 

 

何も返せぬまま逝ってしまった大好きな人。

 

 

星になった、愛する家族。

 

私は同じく星になったMinatoを

祖母に託すしかなかった。

 

「Minatoを、よろしくね」

 

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今日、初めて命日の日に

お墓参りに行ってきた。

昨日のうちに従姉弟が掃除していて

お花も飾ってあった。

 

墓石の前の階段に腰をかける。

 

 

ばーばの分のタバコに火をつけて。

話しながら一緒に一服をした。

 

色んな話をしたあと、

墓石の前に立つ。

 

『私、行かないと』そう言って

涙を流しながら笑った。

 

でも、動けなかった。

 

引き止められてるような感覚だった。

 

 

ねぇばーば。

ばーばが生きてたら何て言う?

ケツ引っぱたいて怒るんだろうね。

『メソメソしてんじゃないよ!』って。

怒るんだろーな。

 

なんで、夢の中でさえ

逢いに来てくれないの?

いつも、出てくるの母ちゃんなんだけど。

困るんだよね。ばーばじゃないと。

 

 

逢いに来てよ。

お願いだからさ。

 

怒ってくれよ。いつもみたいにさ。

 

 

……死ぬの早いんだよ、バカ。

 

 

 

私は止まらない涙を流しながら

拳を握りしめた。

 

 

 

 

ビール、飲みすぎんなよ。

タバコ、吸いすぎんなよ?

 

2月の誕生日にまた来るからさ。

そうそう。ビール。

アサヒがいいか麒麟がいいか決めといてよ。

悩むからさ。

私、ビール飲めないから分かんねーし。

 

んじゃ。またね。

2月までは何とか頑張るからさ。

力、貸してくれよ?

 

そしたらまた、タバコ吸おうね。

 

 

 

 

後ろ髪を引かれながら、

私は誓いと願いを握りしめて。

歩き出した。

 

 

ばっぱちゃん(ひいばあちゃん)

ばーば。

ポンポ痛いじーじ(祖父)

 

みんな大好きな人。

私を守ってくれているであろう家族。

 

 

じーじは空に。

そして。

じーじと仲が悪かった2人は星に。

それぞれの光になった愛する人たち。

 

 

もう少し頑張ってみるよ。

まだ、そっちには、逝かないでおくよ。

 

残念ながら、

私を待ってる人たちは他にもいるんだ。

 

 

もうちょっと、

そこで待っててね。