ぽンすけ。ブログ

主に闘病記。タイトル【欠陥品】は病気の発症とされる時期(生い立ち)について。毎月末に【月詠み】として1ヶ月の軌跡をまとめています。他は思ったこと、言えないこと、言いきれない想いを綴ってます/⚠閲覧は自己責任

欠陥品⑧/中学校

 

 

――中学生になってからのお話です――

 

 

兄からの暴力(欠陥品⑤参照)に耐え続け、

私は中学生になった。

 

居場所を無くしていた私にとって

最高の場所だった。

 

私が通っていた中学校は、

大々的な改修工事(兄はずっと仮校舎)を経て

私が入学する時に新校舎になった。

私がいた町は海と山に挟まれた小さな町。

 

その山の中腹にその中学校はあった。

 

当時では全国的には珍しい『教科教室型』を

取り入れ、

“海から中学校を見上げると船型に見える”

…というデザインでカラフルな校舎に生まれ変わった。

 

校舎は3棟(東棟・西棟・南棟)に分かれ、

それぞれの棟をガラス張りの渡り廊下、

または中庭を通る設計になっていて、

それぞれの棟に数学室・英語室・国語室…と

いったように教科別の教室がある。

 

 

私たち生徒には、“自分たちの教室”はなく、

学年毎に各棟にある教科教室の更に奥、

ドアで仕切られたロッカールームが荷物置き場。

 

教科によって自分たち自らが教室に向かう。

そして学年によってホームルームをする仮の教室が与えられる。

 

それが『教科教室型』であった。

 

自分たちが与えられる教室は、

ホームルームが終わればどこかのクラスが

授業で使う。

 

どの学年でどのクラスが、

どこの教室を使うのかは毎週、ときには

毎日変わる。

 

私たちは各棟、各階に設置されている

『インフォメーションボード』を見て

行動する。

どこかのクラスと同じ時間同じ教科を学ぶ

…ということも珍しくないため、

『1年1組:東棟   3年2組:西棟』

…という風にクラス毎に

インフォメーションに掲示されるのだ。

 

 

時間割的に移動が間に合わないと判断したときは、

2教科分の授業セットを持って移動する

…なんていうことも珍しくない。

 

それから給食。

 

給食は東棟の1階と3階に設けられている、

食堂で食べる。

 

小さな町な故、1クラス30人未満。

学年毎のクラスは2クラスしかない。

 

食堂の場所は月毎に変わる。

1階は2学年4クラス分が座れる広さ。

(中庭側と海側で学年毎に分かれる)

3階は1学年2クラス分が座れる広さ。

 

学年毎に1ヶ月ペースでグルグル場所を変え

3年生と1年生が1階の食堂で給食を食べる

……なんていう月もある。

 

 

それ以外にも中学校にしては十分すぎるほどの施設があった。

 

 

図書室にはテーブル&椅子完備のテラスが

設けられ海を見ながら本を読むことができ、

3階にある食堂や、パソコン室など、

海側に面した教室のほとんどにテラスがある。

 

自然に囲まれた、天国のような場所だった。

 

 

全国初の試みということもあり来客も多く、

挨拶や身だしなみ、各棟の掃除については

全校生徒みんなで注意し合い

みんなで整え綺麗にした。

そのくらい生徒たちに愛される校舎だった。

 

 

そんな夢のような中学校に入学し、

大変ではあったけれど

“当たり前”がない日常に私は幸せを感じていた。

 

全校生徒が使う机や椅子、ロッカー。

だからこそ物を大切に。時間を大切に。

教室の予定変更は見逃さないよう、

自らが考え最短ルートを練り行動する。

 

“昨日と同じ日”というのがない毎日だった。

 

そんな中、私は兄の『イジメ』の光景を

ついに見てしまった。

常に移動している毎日だ。

必ずと言っていいほどすれ違う。

見たくなくても見えてしまう。

 

そんな兄を横目で見ながら、私は敢えて

兄をイジメている女子生徒が揃っている

ソフトテニス部』に入部した。

小学校から憧れていた先輩がいたのも

入部した理由だが、

 

「私は兄と違ってお前らには屈しない」

 

そう思って入部した。

 

兄は「敵わないから止めておけ」と言った。

だが、私をこんな風にしたのは

紛れもなく兄だ。

 

イジメというストレスを

私にぶつけてたのなら尚更だ。

 

「誰にも負けない。屈しない。」

 

今更、兄貴面するな。

 

私はもう兄を兄だと思っていなかった。

“同居人”という存在に変えたのだ。

そうするしか暴力に耐える方法がなかった。

 

だから兄の意見は受け入れず、入部した。

 

 

案の定、目をつけられた。

いくら小学校から知ってる人達でも

3年生だけで12人。それだけ敵がいた。

 

散々な仕打ちを受けた。

真夏でも上下長袖長ズボンで永遠と玉拾い。

先輩が「ジャージ脱いでいい」という

許可がおりないと脱げなかった。

 

休憩で飲む麦茶さえ飲むことを許されず

先輩が帰ったあと、残った渋い麦茶を

ようやく一口飲める程度。

あの渋さが忘れられず、私は今でも

麦茶が苦手だ。

 

 

それでも私は、一緒に入部した他4人と共に

歯を食い縛った。

顧問の先生に頭を下げ、放課後の練習後

1時間だけでもボールを打たせてもらえるよう頼んだ。

 

朝練はグランドから校舎をひたすら走る。

絶対に先輩には負けたくなかった。

 

「見返してやる」

「上手くなってやる」

 

必死に足掻いた。

 

 

そんな私を癒すのは海だった。

 

テラスで海に向かって歌を唄う。

 

泣きながら唄ったことも少なくない。

 

でもようやく見つけた『居場所』。

 

 

お父さんが教えてくれたテニス。

 

 

ただ、生きることに必死だった。

存在意義を知りたかった。

 

 

それが部活なら、

這い上がってやる。

 

 

そんな中学校1年の夏を終え先輩逹は引退。

季節が冬になろうとした頃だった。

 

 

相変わらず家に帰ってこない母から

私たち兄妹は呼び出された。

 

またもや車という密室。

 

助手席に私が座るよう言われた。

 

母が口を開く。

 

 

「お前ら、喧嘩でもしてんのか?」

 

 

焦った。

毎日の電話しかしてない母が

何かを察している。

 

兄は「別に喧嘩してないです」と

すぐに返事をした。

 

私は一瞬にして兄に殺意が芽生えた。

 

母はそれを見逃さない。

 

 

「吐け。何があった。」

 

 

私の顔を見て母は言う。

 

何度も母に名前を呼ばれる。

 

 

「お兄の事が嫌いか?あ?」

 

 

そう母に言われたとき、

私の中の何かが壊れた。

 

 

私は「大嫌い」と母に言った。

 

母は『だろうな。理由は?』

 

私は悩んだ末、母に言う。

 

 

「お兄ちゃんに殺されかけた。」

「毎日殴られた。」

 

そう母に言いながら私は泣いた。

 

ようやく言えた。そう思った。

このことを言ったら、また兄に殴られる。

その恐怖で母に言えずにいたからだ。

 

 

すると母は

 

 

 

私のことを殴った。

私の頭を助手席側の窓に押し付けて

母は言った。

 

 

「どうせ、お前が悪いんだ。」

 

 

なんで?

 

 

「お兄ちゃんがイライラするようなこと、したんだろ!」

 

 

 

あぁ…そうか。

 

 

母は兄を溺愛していたんだった。

 

 

私は何か話す気力さえ無くして

ただ殴られ続けた。

 

 

母が帰り際に、兄にビンタだけして

「うまくやんな」…と言って去っていった。

 

 

兄は『ざまぁみろ』と私に言った。

 

 

 

壊れていたのは私じゃない。

今の私はそう思う。

 

 

でも当時の私は、

「私が生まれなければ…」とか

「私が生きてるのが悪い」などと考えていた

 

 

死に方も分からない。

生き方も分からない。

 

 

分かっているのは我慢する方法だけ。

 

 

学校だけが、私が存在していい居場所。

 

それしかなかった。