ぽンすけ。ブログ

主に闘病記。タイトル【欠陥品】は病気の発症とされる時期(生い立ち)について。毎月末に【月詠み】として1ヶ月の軌跡をまとめています。他は思ったこと、言えないこと、言いきれない想いを綴ってます/⚠閲覧は自己責任

欠陥品⑦/自覚編

 

初めての心療内科は、とてつもなく重い雰囲気。

会計を待つ人、診察を待つ人。

どこをどう見渡しても項垂れている人ばかり。

この世の終わりのカウントダウン真っ最中のような空気だった。

 

実際に診察が始まると、なぜか母も一緒に

当たり前のように診察室に入ってきた。

 

嫌な予感がした。

 

私に口を開く隙さえ与えず、母が先生と話し出す。

『実は社会人としてまだまだ未熟で…』

 

 

ん??

 

 

おかしい。

 

そうじゃない。

私が言いたいのは母との関係のことだ。

 

母は話続ける。

『ストレスも溜まってるみたいで…』

 

違うよ?ねぇ…違うんだよ先生…

 

先生は私の顔を見た。でも声が出ない。

 

結局私の症状は『過労』で済まされた。

気休めの安定剤だけ渡された。

 

母はその薬を私から奪った。

 

結果私は本質を言えぬままその場を去った。

 

後日。

会社に診断書を渡した。

『過労によるストレス』『勤務継続可能』

 

上司は何も言わず頭を撫でてくれた。

 

私の心情を察してくれたのだろう。

 

私が入社したのは、東北では有名な

7&iグループのスーパー。担当はレジ。

 

茨城に店舗拡大を図るため、

私は茨城では初の高卒正社員採用だった。

出世コースとも呼ばれ、

各県への転勤も条件に含まれている。

 

私の上司は入社半年で出世、

レジマネージャーとして茨城の新店舗を

任された、裏では伝説の社員と呼ばれる人。

 

その上司の元、

私は大きな期待をもたれていた。 

高校からレジのバイトをしていたことも

ひとつの理由であった。

 

その矢先のことである。

『過労によるストレス』

 

その言葉ひとつで私の立場はひっくり返る。

 

店長から言われたのは

『茨城エリア限定の契約社員への転向』

 

降格である。

 

私の上司は、断れと言った。

『転勤は母親から離れるチャンスだろ?』

『それが無くなるんだぞ?』

 

私は悩んだ。

当時19歳。

 

店長から、こんなことも言われた。

『1週間後、山形の新店舗へ転勤が決まった。』

『…そう言われたとき、1人で行けるのか?』と。

 

店長は、私と母の確執は知らない。

善意で言ってくれたのだ。

未成年であることに変わりはない。

ましてや『過労によるストレス』なんて

医者に言われてるなら、なおのこと。

 

何も知らずただ未成年である私を守るため

店長が出した答え。

 

事情を知った上で、母から私を守るため

上司が出した答え。

 

 

19歳の私には、それを決める度胸も決意もなかった。

 

結局、母に相談することにした。

 

そうするしかなかった。

 

契約社員になるということは減給。

母の元を離れることを許してくれるなら、

月20万は貰える生活が保たれる。

 

 

母は、私を契約社員にさせることに決めた。

 

 

きっと、ここが人生の分岐点だったと

今の私は思う。

 

契約社員になったことで給料もボーナスも

今までのほぼ半分の額まで下がった。

 

現実を目の当たりにした母は怒鳴り散らす。

 

『この役立たずが!!』

『その程度の仕事しかてめぇにはできねぇのか?!』

『何が過呼吸だ!そんなに死にてーなら死ねよ!』

『レジしか打てない能無しが!!』

 

 

散々罵倒された。何度も蹴られた。

髪の毛を捕まれ玄関まで引きづられた。

 

(決めたのはお母さんじゃないか…)

 

そんな声は届かない。言えない。

 

ただひたすら、母の愛人が帰宅するのを待つ。

帰ってくればこの状況は収まる。

部屋に閉じ籠れる。

 

小学生の私と19歳になった私は

何も変わっていなかった。

 

ただ、ひらすら耐える。

(自分が過呼吸になっちゃうのが悪い)

 

自分を責めて責めて。

それしか出来なかった。

 

 

その後、今度は私の身体が悲鳴をあげた。

 

食事も喉を通らず、水分も摂ると吐いてしまう。

母は食事を残すことを許さない人間だった。

 

だから無理矢理、口に放り込んでは

トイレで全部吐いた。

 

それでも会社には行く。

いつからか、私の身体が受け付けるのは

コーヒーと煙草。

 

それだけで日々過ごしていた。

朝の7時から職場に行きオープン準備をし

自分の勤務時間が終了しても、

タイムカードを切ったあと事務作業。

その間もレジが混めば助っ人に入る。

閉店作業をするパートさんの手伝いをし

0時まで会社にいる。

 

帰るのは深夜1時近く。

 

家に帰れば決まって、母が起きてきて

脱衣場に閉じ込められ

『安い給料しかもらえない能無しが、こんな時間まで働く意味あんのか?』

『それとも、どっかほっつき歩いてんのか?』

 

尋問と暴力を繰り返される。

 

母が作った冷えきったご飯を温める。

そして吐く。

 

毎晩、私は泣いた。

 

(自分が悪いんだ。でも頑張らなきゃいけない立場なんだよ…。分かってよ…。)

 

そんな日々が1ヶ月経ったある日。

朝、身体が動かない。声が出ない。

 

遂に身体が機能しなくなった。

 

母が職場に連絡して13時から閉店までの

遅番出勤に急遽変更してもらい病院へ。

 

『栄養失調』だった。

 

それから約2ヶ月間、朝イチで病院へ行き

点滴をしてもらったあと、そのまま出勤する生活を続けた。

 

心も身体もボロボロだった。

この時初めて『死』というものを考えた。

 

仕事が休みの日。高校の同級生に誘われた。

親には『仕事』と言って、息抜きへ。

思い出話をしながら夜まで。

夜の海で久々に笑いながら話していた。

 

その時、同乗していた高校からの付き合いの親友が突然、目の前で手首を切った。

 

目の前が真っ白になった。

 

親友がなぜ、そこまで追い詰められてることに気づかなかったのか。自分を責める。

 

(結局私は誰にも頼られない。親からも逃げられない。それなら一層…)

 

私は無言で車から飛び出し、弱った身体を

fullに使って夜の海へ走り出した。

 

(このまま…海に入れれば楽になる)

 

真冬の夜のことだった。

 

ドライブには私を含め4人同乗していた。

1人は手首を切った親友の手当て。

もう1人は車の中で混乱しているのを知っていた。

 

(今なら1人で…逝ける)

 

弱った身体、砂浜。

ある程度走ったあとは力尽きてフラフラと

夜の海へ向かった。

 

(みんな…ごめんね)

 

そのとき、

車の中で混乱していたはずの1人が、

私の腕を掴んだ。

もうすぐ海に辿り着ける、途中の砂浜で。

 

そして思いっきり平手打ちされた。

 

『なんでお前は全部1人で背負うんだ!』

『なんのために俺らがいる?!』

『言えよ!辛いって言えよ!』

 

『生きろ!生きて見返してやれよ!』

 

 

その人は泣きながら私の腕を掴んで離さなかった。

 

何も話してないのに。

なんであなたが泣くの…?

 

私はこの日初めて、友人の前で泣いた。

『助けて』

 

私はそう言った。

 

 

高校からの友人。

家庭の事情を話したことはなかったが、

毎日バイトをして、稀に顔や首、足に

痣が残っている私の姿を知っていた。

 

家族の話になると、その場から立ち去る私の姿も見ていた。

 

その日、そのとき、そのことを話してくれた。

 

『俺らはお前からの助けを待ってた』

 

そう言ってくれた。

 

私は高校時代、女子からは嫌われていた。

なんとも思ってなかったし、楽だった。

男子とバンドの話やスポーツの話をする方が

断然楽しかったからだ。

 

女子全員からシカトされても苦じゃなかった。

 

その当時の仲間内の1人が、私を救った。

 

そして、もう1人。

手首を切った親友の手当てをしていた人。

その人も高校時代つるんでた1人だ。

 

車に戻る途中、その2人はコソコソと話をしていた。

私は死ねなかった後悔と仲間の温かさで

車に戻りながらただ泣いていた。

 

車に戻ったとき、その2人が言った。

 

 

『俺ら、お前の母ちゃんと話するわ』

『俺らがお前を守る』

 

そう言ってくれた。

でも…迷惑はかけられない。

私は断った。

 

出来る限り笑顔で「慣れてるから大丈夫」。

 

でもその2人の意思は固かった。

 

今までの人生でこんなにも心強く、

母と向き合うと言ってくれた人はいなかった。

 

答えに悩んだ。

 

その日はとりあえず1人で帰ることを了承してくれた。

 

しかし、帰ったあとは地獄だった。

 

まず玄関が開かない。

合鍵で開けてもチェーンが掛かっていた。

 

真冬の深夜。

恐怖と寒さで震えが止まらなかった。

 

1時間くらいして、玄関が開いた。

出てきたのは母の愛人だった。

 

「入れ」

 

恐る恐る家に入る。

 

母がリビングで待ち受ける。

 

土下座して私は謝った。

帰りが遅くなったことに対してだ。

 

母の愛人に首元を捕まれる。

「母ちゃん泣かすなって言ったよな?」

「覚悟、できてんな?」

 

ワンパンで私は意識がなくなった。

 

痛みで意識が戻ってくる。

 

(あぁ…また引きづられてる)

 

母の背中が見えた。

 

そのまま外へ。

放り出された。

 

もう何が起きたのか、整理がつかなかった。

 

ただ、寒い。

 

仲間の温かさが薄れていく。

 

そのまま朝日が昇るのを見届けた。

 

 

ようやく家に入れた。

今思えば、逃げる絶好のチャンスだった。

 

逃してしまったことを後で振り返った。

 

私は仕事を休まされた。

地獄の再来だ。

 

 

そしてその日の夕方。

私の携帯に2件の着信があった。

 

昨日の2人からだった。

 

「お母さんに電話変わって」

そう言われ、私は拒否をした。

目の前に母が睨み付けているからだ。

 

結局押し負けて母に電話を渡す。

 

代わりばんこに2人は母と話したいと電話をしてきた。

 

内容は分からない。

ただ母は『金輪際、うちの娘と関わるな!』

その一点張りだった。

 

電話を切る直前、私に電話を渡された。

友人の1人が言う。

『約束、守るから。待ってろ。』

 

 

そして数分後。

2人は家にやってきた。

 

私の目の前で、2人は母に向かい合い

土下座をした。

 

衝撃だった。

 

私は泣くことしかできなかった。

嬉し涙だ。

 

2人は頭を下げながら母に言う。

『娘さんを危険な目には合わせません』

『俺らが守ります』

『今回遅くまで出掛けさせたことも俺たちのせいです』

『今後は遅くまで出掛けるようなことはしません!』

 

『申し訳ありませんでした!』

 

なんでここまでして守ってくれるの?

私には分からなかった。

 

でも彼らは

『高校のときから彼女には何度も助けられてきました』

『いつも笑ってて。辛いことも吹き飛ぶくらいだったんです』

 

そんな事あったのか…?

私はただ、彼らを含めた仲間たちと

くだらない話で笑い合ってただけなのに。

 

母は2人の言葉を最初は

『ガキに何ができる!世間知らずが!』

とか何とか怒鳴り散らしてたけど、

途中からは彼らの言葉を聞き入れていた。

 

最終的に2人は母とある約束をして

お互い納得したような顔で2人は帰っていった。

 

その約束は

 

『遊ぶときには母に連絡してからにすること』

 

今思えば、私はこのとき19歳の社会人。

中学生ではない。

こんな約束をするのは社会人として

おかしな話である。

 

でも私はこの2人に命を救われ、

母との確執も少し改善してくれた。

 

感謝しかなかった。

 

 

だからこそ、それから10年経った今、

彼らと連絡は取っていない。

 

ここから更に悪化していく親子関係に

巻き込みたくなかったからだ。

 

そして、今現在、弱っている自分も

隠している。

 

自分の心境、体調の変化が母との確執であることを自覚してからが、私の本当の闘いだった。

 

今だから言えるが、当時はまだ

(私が母を怒らせなければ大丈夫)

(母の気に触るようなことさえしなければ)

 

(母には私が必要なんだ)

 

…そう思って信じていたからだ。

 

時折見せる母の優しさに甘えたかった。

優しい母でいるために私が出来ること、、

 

それは母の側にいること。

 

そう思っていた。

 

 

―――あれから10年。

 

母との縁を切った私が今ここにいる。

 

 

 

                                      自覚編:完