ぽンすけ。ブログ

主に闘病記。タイトル【欠陥品】は病気の発症とされる時期(生い立ち)について。毎月末に【月詠み】として1ヶ月の軌跡をまとめています。他は思ったこと、言えないこと、言いきれない想いを綴ってます/⚠閲覧は自己責任

2011.3.11

 

今日で7年の月日が経ちました。

あの日起こったこと。

仲間に向けて書きます。

 

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2011年3月11日。

 

私はヨークベニマルの社員として、

その日は茨城でオープンしたばかりの店舗で

いつも通り、レジに立っていた。

 

そして。

 

地は揺れ始めた。

 

地震だ。

その程度にしか思わなかった。

 

私はお会計の最中で、地震を感じながら

お客様が財布から5000円札を取り出し、

受け取った瞬間。

 

「ドン!」という音が地面から響いた。

 

そして、その音と共に揺れは大きくなり、

固定されてるチェッカー台、更には

お客様が袋詰めするサッカー台まで

一斉に滑るように動き出した。

 

陳列台が倒れる音。

お客様の悲鳴。

店長を含め、社員がお客様誘導のため

声を張り上げた。

 

「でかいぞ!外に逃げろ!!!」

 

私とお会計をしていたお客様は

ガタガタとその場で固まってしまっていた。

みんなが外へ飛び出し避難していく中、

私とそのお客様だけが店内に取り残された。

私はそのお客様の肩を抱え、

無理矢理歩くよう誘導した。

 

だが、そのお客様は今度は腰を抜かして

「もういや!!!」と叫び出す。

 

揺れは止まらない。

 

私は外に出るのを諦めて、

うずくまるお客様の上に覆い被さり

揺れが小さくなるのを待った。

 

ようやくお客様が地を這うように動き出す。

揺れは引いた。

 

余震が来る前に…!

 

私はお客様の抱え、ようやく外に出た。

 

 

駐車場にはヒビが入り地面が歪に盛り上がっている。

 

何度も余震をその場で耐え、

お客様は各々帰宅していった。

 

 

私たち社員の仕事はこれからだ。

 

 

店長がまず店内へ入り中を確認。

数人ずつ貴重品を取りに行く。

 

そして社員はこの場に残るよう指示された。

 

当時、実家(茨城県ひたちなか市)に

住んでいた私は母に連絡。

それ以降、携帯は役に立たなかった。

 

商品が倒れ、お酒や調味料のビンが割れた店内は異臭がした。

 

店長は「明日、日用品を店頭販売する」と決め、

ガスコンロやトイレットペーパー、ティッシュ、おむつなど、

異臭漂う店内から日用品をかき集めた。

 

それ以外にも提供できそうなお菓子やパンなど、

複数人で各々商品を集めた。

 

100円~300円のアバウトな値段で

店頭販売の準備をした。

 

 

そしてその夜。

 

 

ひたちなか市内の店舗で、外国人による強盗が入ったと連絡があった。

レジの中身を全部盗られた、という知らせ。

 

慌てた男性社員が外に出ると、

複数台車が停まっていた。

 

それを確認した男性社員は、

店の前に自家用車を停め、

交代で見張ることにした。

 

事務所で残された女性社員は、

店長と共に他店舗の被害状況の連絡を待った。

 

電話が鳴ればスピーカーに切り替える。

 

聞こえてくる声は

 

「仙台◯◯店です。従業員と連絡がつきません」

「仙台◯◯店です。看板以外、全部津波で流されました…」

「◯◯店。津波で1階店舗が浸水、2階事務所で避難中…」

 

耳を塞ぎたくなる。

 

宮城県福島県には大勢のスタッフがいる。

新店舗オープンの援助で行ったこともある。

 

同期も大勢いる…。

 

気付いたら泣いていた。

 

みんなが泣いていた。

 

 

なぜなら、社員のほとんどが東北出身。

茨城に単身赴任で来ている副店長をはじめ、

ほとんどが転勤で茨城に来ている。

 

家族の安否。

友人の安否。

 

 

私なんかより不安と恐怖に怯えていた。

 

 

私がいた店舗は実家のひたちなか市の隣、水戸。

 

だが、水戸から隣の市に戻るには

川が流れているため橋を渡らなければならない。

ルートは3箇所。

 

全て、津波の被害により、川が増水。

 

橋は通行止めとなった。

 

 

帰るに帰れない私。

家の状況も気になっていた。

 

その晩、実家のことは兄に任せ

私は事務所に泊まった。

 

翌日、店頭販売。

 

 

泣いてる人。

「ありがとう」と強く手を握るお客様。

 

もう値段とか関係なくなって、

何点持ってようが、とりあえず500円で済ませた。

 

守って欲しいことは

「同じ商品をまとめ買いしないで」ってこと。

それだけは、お客様に話をして了承してもらった。

 

店側としても、いつ商品が入荷するか分からない。

困っている人を極力少なく、抑える方法は

「みんなで協力し合う、分け合う」。

 

そう説明した。

 

店頭販売が午前中の内に終了。

ようやく社員は帰宅を許された。

 

通行止めもない。

 

車で走りながら、店以外の被害状況を

目の当たりにした。

 

地面はヒビが入りガタガタ。歪んでいる。

 

屋根に隕石でも落ちてきたのか?

というくらい潰れた家や店。

 

ハンドルを握る手は震えていた。

 

実家に戻ると、案外キレイだった。

 

大きな被害はなかったらしい。

 

…というか、私以外の家族が片付けた。

それだけだ。

 

ただ、水も電気も復旧していなかった。

 

兄は自転車で、水を配ってる店に

通いに通い、難を凌いでいたらしい。

その水を母がガスコンロでお湯に変えてくれた。

 

僅かな水で風呂を済ませた。

 

少し仮眠をとり、また店に戻った。

 

 

店舗内の掃除が残っているからだ。

 

 

その作業は社員だけで行った。

代わりがわり、ガソリンスタンドに行く。

その繰り返し。

 

 

そんな時、業者から

「栃木からなら商品を積んだトラックを出せます」という連絡を受けた。

 

その到着時間は未定。

当日中には無理なことだけは分かった。

 

 

夕方、ダメになりそうなバナナや

非常食を持って帰宅した。

 

 

母は泣きながら喜んでいた。

 

 

私は食事も摂らず、また寝た。

 

 

そして、朝方3時。

栃木からのトラックを待つため店に行った。

 

店長、副店長、近隣の社員、そして私。

言わずとも集まった4人。

 

まだ冷える朝方。

副店長がガスコンロで水を温め、

その中に缶コーヒーを人数いれて、

ホット缶コーヒーにしてくれた。

 

副店長の実家は福島。

「今すぐにでも帰りたい。でも俺、副店長だから」

そう言って必死に笑っていた。

 

副店長とは私が入社してからの付き合い。

4年、共に仕事をしてきた。

私にとっては父のような存在だ。

新店舗に私が異動になるとき、

直談判して、副店長も新店舗に異動してきてくれたのだ。

私の精神疾患のことを知る人だ。

不安や緊張、慣れない環境下に置かれて

私がパニックになるんじゃないかと、

心配だったそうだ。

 

 

 

そんな父のような存在の副店長の

不安と責任感の葛藤。

私にはすぐ分かった。

 

「落ち着いたら実家に戻っていいからね」

「大丈夫、大丈夫だよ。」

 

私の言葉に副店長は、安堵の顔を見せた。

 

栃木からのトラックは朝方5時に到着。

私たちは歓喜で飛び出していく。

 

トラックの運転手にひたすらお礼を言った。

 

トラックの運転手にも温めた缶コーヒーを渡した。

 

それから約1週間に渡り、

「朝方3時集合」が続いた。

 

 

各々が様々な気持ちを抱き、

それでも店舗を守るため。

何より、近隣に住むお客様の力になるため。

 

私たち4人の社員は、

人知れず動いていた。

 

 

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あれから7年。

私の住む茨城県

 

屋根の上に被せたビニールシートは無くなり

道路も直っている。

 

私の生まれ故郷、大洗。

 

津波の被害に遭ったことで、

防波堤が作られている真っ最中。

 

とあるアニメの影響で、

賑わいをみせる町。

 

その一方で、ようやく防波堤の作業が

始まったことも事実である。

 

それだけ、予算が無かったのだろう。

 

 

 

多くの人が亡くなり、

未だ自宅に還れずにいる人もいる。

 

「次の震災は…」と

よくニュースでやってはいるが、

「次」も勿論大切。

だが、「今」ようやく動き出してる町もある。

「未だに」手付かずの町もある。

 

どちらも大切なこと。

 

 

私は被災者として思う。

「災は人の心を問う」と。

 

 

何を思い、そして何を守るのか。

 

考えてほしい。

 

 

ご冥福を祈ると共に。

これからの日本の心に、願うばかりである。